サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(Observe Everything Carefully to Avoid Falling into Foolishness and Madness)

*人間は愚かであることから逃れられない。どんなに賢明な選良であっても、あらゆる種類の愚行を回避することは不可能に等しい。立場が違えど、その立場に固有の愚行に陥って様々な弊害を惹起するのが人間の性というものである。
 愚行という言葉が包摂すべき範囲は果てしなく広い。例えば法律に違反する犯罪行為は悉く愚行に違いないが、その愚かさの性質には無限のニュアンスがある。痴漢の愚かさと、詐欺師の愚かさと、殺人犯の愚かさには、色調や温度、意味合いの差異がある。そもそも、愚かさという性質は、人間の内部で、あらゆる分野に均等に浸潤する要素であるとは限らない。社会的地位や名声に恵まれ、自己の仕事において卓越した才覚を示す人間が、同時に愛欲や金銭について鼻持ちならない深刻な愚行を演じることは珍しくない。或いは日頃万事に注意深く沈着である人物が、何かの拍子に、たった一度の致命的な愚行を演じて、取り返しのつかない没落の深淵に沈むということもあり得る。見るからに愚かな人間だけが愚行に走る訳ではない。地位も評判も申し分のない、周囲からの信頼も篤い人物が、闇に紛れて醜悪な愚行の連鎖に陥っている可能性は決して小さくない。
 その意味で、人間が完全に賢明であろうとすることは確かに無謀な試みであり、法外な野望であると強調すべきかもしれない。自分では賢明な判断を下した積りであっても、傍目には愚行の極致に他ならないという事例も無数に実在する。そもそも、自分の愚かさに気づかないというタイプの愚行さえ有り触れているのである。そう考えれば、愚行を回避することの困難は名状し難い難易度を誇っていると言えるだろう。我々に為し得ることはただ、少しでも愚行の総量を減らすことだけである。虫歯を根絶することは困難であるが、地道なブラッシングで虫歯の進行を停滞させることは出来る。愚行そのものを人間の内部から完全に除去することは出来ないが、愚行の悪化、進行、拡大を食い止めることは不可能ではない。その為には先ず、様々な愚行の類型と事例に通暁することが不可欠である。
 所謂「物語」の社会的効用はまさに、こうした点に存するのではないだろうかと私は思う。小説でも漫画でも、ドラマでも映画でも構わない。人間の思惑や行動を描いた作品は、少なくともそれが優れた作品である限りは、人間の存在に関する何らかの真実を示している。人間が何を考え、何に強いられて、如何なる行動に帰着するのか、それを仮想的に経験させるのが「物語」という装置の機能であり役割である。そして大抵の小説には、何かしら人間の愚かしさが刻印されているものであり、もしも登場する人物が軒並み、如何なる瑕疵も持たない聖人君子の類であったら、物語の成り行きは極めて平板で退屈なものになるだろう。
 例えば、三島由紀夫の「金閣寺」の主人公である溝口は、金閣寺の徒弟という立場でありながら、肝腎の金閣に火を放ち、自らの人生を棒に振る道を選び取る。それ自体は明らかに愚行であり、傍目には殆ど狂気に類する蛮行である。しかし、その事件の顛末を精細に描き出し、倦まずに語り続ける三島の偏執的な筆致を通じて読者は、その愚行の固有性、独自の生理を想像的に体験することが出来る。無論、三島の描き出す放火犯の肖像は余りに思弁的、余りに審美的、余りに観念的で、三島自身のオブセッションや哲学を濃密に反映したものであるから、同様の愚行を演じる危険性を背負っている人間は、実際には極めて限定的な水準に留まるだろう。或いは、安部公房の「他人の顔」の主人公は、顔面を覆い尽くすケロイド瘢痕を隠して他者との回路(主としてセクシュアルな関係)を再建する為に、精巧な仮面の作成を企てる。そのプロセスを入念に描き出す安部公房の筆致を通じて、我々は彼の狂気を、その特殊な愚かさをありありと思い浮かべることが出来る。火傷を隠す為に精緻な仮面を開発し、実在しない他人に成り済まして自分の妻を誘惑するという筋書きは(そして実際には正体を見抜かれていたという醜悪な蹉跌は)、客観的に眺めれば筋金入りの愚行に過ぎないが、その愚行の切実な動機を鑑みれば、他人の愚行を指弾することは容易であっても、自己の愚行を是正することは極めて困難であるという有益な真理に開眼せざるを得ない。
 様々な芸術的作品を通じて表出されてきた人間の多様な実存的形態は、人間の生が極めて可変的で、野蛮で、良識に抵触する本質を備えているという普遍的な事実を明確に示している。我々は様々な他者の事例に学び、愚かさの多彩な様式を知り、その蓄えによって自らの愚行を抑制し、健全な生活の部分的実現に期待を寄せるしかない。それは同時に、愚行への寛容さを育む手段にもなり得る。他人に害悪を及ぼす類の愚行は抑制されねばならないが、時に愚行と思われた行為や決断が、画期的で有益な成果に結実する場合もあることも、我々は同時に学習し、肝に銘じておかなければならない。他者の愚行に対する狭量な迫害もまた、結果として人間の愚行の一端を成す虞を内包しているのである。良くも悪くも、我々は自身の愚行の早期発見と適切な処置を心掛けて、階段を踏み外さぬように注意して生きるしかないのだ。

Cahier(Could you confirm there’s no wrongness of me?)

*人間は誰でも間違いを起こす。過ちを犯し、誤認と錯覚に操られ、事実を曲解し、現実的な判断よりも希望的観測を重んじる。つまり、客観的事実に対して欲望に基づいた想定や期待を優先する傾向を生得的に備えている。これは人間の度し難い悪癖の一つである。
 新型コロナウイルスを巡って惹起された諸々の艱難は、国民的な不満と議論を呼び覚まし、生活の窮迫に喘ぐ人々の怨嗟の訴えは日増しにその勢威を募らせている。菅総理を筆頭に政府や自治体の首脳は悪し様に罵られ、オリンピックの開催強行や生温い入国制限に対する排外的な憤怒が巷間を席捲している。確かに総理大臣の意思決定の遅滞、表現力の欠乏は深刻な水準に達しているように見える。ただ、彼が殊更に劣悪な、無能な、退屈な人間であるとは断定し難い。誰があの地位に登ったとしても、多かれ少なかれ苦心惨憺は避けられない。外野から批難するのは容易だが、総理を罵るだけで世界が良い方向へ傾斜するようにも思えない。無論、政府には国民の批判を甘受し、応答する責任が建前として課せられている。その建前を大切に尊重することは、この国の社会的制度の総体を円滑に運用していく上で必須の擬制である。従って、記者の質問に対して明言の回避に終始する菅総理の腰砕けの姿勢を批判するのは国民の明確な権利である。
 問題は、総理を罵ってもコロナウイルスは根絶されないということである。総理が盆暗であろうと人気者であろうとどうでも構わないが、コロナウイルスには御退場頂く必要がある。多くの人が所得の減少に苦しみ、企業は止まらない業績悪化に青褪め、医療機関や保健所は地獄の過重労働を強いられ、あらゆる分野で不愉快な制約が忍従の対象となっている。会いたい人に会えず、行きたい場所に行けない社会が不幸であることは論を俟たない。だから、感染制御が重要であることは無論だが、最終的にはワクチンや特効薬の開発によってコロナウイルスの威力を衰弱させることが唯一の解決策である。ロックダウンに類する種々の社会的制約は、ウイルスの撲滅には聊かも寄与せず、ただ時間を稼ぐ為の処置に過ぎない。その意味では、ワクチンの接種が一向に進んでいない状況下で、緊急事態宣言を解除することは不可能である。いや、可能ではあるが、論理的に矛盾している。解除する理由がないからである。ワクチンの接種が進捗して、イスラエル英米のように新規感染者の劇的な低減が数値として明確になれば、漸く宣言解除の根拠が誕生したということになるだろう。尤も、副作用の頻発による健康被害が大規模に報告されるようになれば、ワクチン接種の推進という輝かしい正当な政策さえ、悲劇的な過ちというラベリングを冠せられることになるのだろうが。

*過ち、それは人間に付き纏う宿痾である。誰も例外ではない。政府の失策を糾弾する人々も、自身の生活においては、数多の失策を犯しているに決まっている。だから私は、揺るぎない正義の美名の下に、総理の愚かしい問答を一方的に批難する気にはなれない。総理が人より抜きん出て優れた人物ではないという平明な事実に失望するだけである。過ちを避ける為には、賢慮が不可欠であるが、これは一朝一夕に手に入る資質ではない。個別に、各自が錬磨する努力を怠らぬようにするしかない。或る現象的事実から、適切な推論によって、適切な予測を行い、自身の行動を制御し、不合理や過失を注意深く回避するように努めるしかない。けれども、人間の心身は脆弱なもので、疲労が溜まれば判断力や思考力は鈍るし、若者は経験の不足によって、老人は心身の衰弱によって、正しい判断を失する。老害を批判するのも結構だが、若者の浅慮も齎す被害の大小や性質について言えば大差ない。結局、愚昧の性質が異なるだけで、人間は誰でも多かれ少なかれ愚者なのである。だからこそ、賢者に憧れもする。とはいえ、賢者が絶対的な成功を約束されている訳でもないし、そもそも人間の能力には先天的な偏向が備わっているから、誰でも一律に、適切で正当な結論に到達するとは言い切れない。そうであるならば、結局のところ、人間は自分の愚かさを客観視し、適切な訂正を施す能力を鍛えるしかない。間違いを起こさないことだけではなく、起こした間違いを適切に、迅速に修正することにも多くの労力を投入する習慣を堅持せねばならない。言い換えれば、人間は自分自身の個別的な愚昧性の内実を、各自で明確に把握しておかなければならないということである。煎じ詰めれば、適切な自己理解を確保することだけが、人間を相対的に過失から遠ざけることの出来る唯一の方途なのである。

*誰も愚者としての生存を免除されない。相対的な優劣はあったとしても、本質において、人間の賢慮には限界と制約が課せられている。従って独断と偏見を忌避する為に、我々は自分自身の言動を入念に観察し、その長短を把握し、構造的な傾向性を調整し、何よりも先ずfactを重視する習慣を帯びなければならない。諸々の感情的なバイアスに振り回されたり、期待と推測を混同したり、反射的な判断に固執したり、多角的な検討を怠ったり、他人の見解を過度に重視したり軽視したり、不都合な真実を曲解したり隠蔽したり、理論に合わせて事実を改竄したりする、諸々の「愚昧」のパターンを熟知して、それを回避する手段を講じなければならない。他者の愚かさを批難するのは、理論上、極めて容易な、安易な行動である。何故なら、如何なる種類の愚かさとも無縁であるような人間は何処にも存在しないからだ。従って、手当たり次第に引鉄を絞るだけでも、糾弾と問責の銃弾は確実に何かしらの標的を撃ち抜くことが可能である。だが、そんな軽率な遊興に何の価値があるというのか? それは現状の追認に過ぎず、愚者を愚者であるがゆえに痛罵するのは、猫が猫であり、犬が犬であることに苛立つようなものだ。猫が猫であるのは単なるfactであって、それ自体に善悪は附随しない。人間が愚者であるのも同様で、重要なのは、愚かさを免れる方法を考えることだ。他者の愚昧を批難するとき、批難する者の愚昧は解消されるのではなく、単に一時的に視野から除かれているだけである。つまり、それ自体が錯覚に由来する愚かさの実例なのである。

Cahier(Our Virtual Universe)

*引き続き、英語の文章を読むことに日月を費やしている。言葉を読んだり書いたりすることに熱中するのは、奇特な慣習である。別に文字を読まずとも死にはしない。文字を持たない社会というのは、古今東西、幾つもあったし、地域によっては今も存続しているだろう。けれども、文字が発明され、言葉が音声という軛を免れ、時間と空間の制約を超越するようになってから、人間の知性が爆発的な発展を遂げたことは疑いを容れない。今日では、言葉は音声であろうと文字であろうと、瞬時に通信技術の力を借りて、全世界へ飛躍することが可能となった。
 言葉は、人類の知性的な成長に多くの豊かな貢献を果たしてきた。言葉の運用に熟達することは直ちに、理知的な能力の向上を意味する。無論、言葉以外にも自己の感情や思念を表現する方法は複数存在する。言葉だけが他者との回路を開く訳ではない。しかし、言葉は極めて合理的で効率的な制度であり、情報の自在な縮約に長けている。物事の要点だけを抜き出したり、枝葉を切り取って簡潔な命題に集約したりすることは、言葉の特権である。音楽や絵画は、夥しい量の情報を一挙に明示することが出来る。そして、そこにも様々な編集があり、縮約と加工がある。しかし、言葉ほど明確に、大胆に、情報を圧縮することは出来ない。
 異国の見慣れぬ言葉を一つずつ拾い集めて、その意味を嗅ぎ取り、秘められた文法的規則に従い、見知らぬ風景を覗き込む。アルファベットの羅列の手順次第で、これほど様々な情報を示唆し、表現し、伝達し得るというのは驚嘆すべき絡繰である。そして、四囲の感覚的・経験的現実を何らかの言葉に置き換えるという作業は、我々の思考の深度を向上させる。有り触れた些末な風景でさえ、それを残らず言葉に置換して表現しようと思えば、途方もない労力と時間、綿密な創意工夫が要る。現実を能う限り精密に観察して、一つ一つの現実の断片に相応しい言葉を選り抜くというのは、簡単な作業ではない。或いは、外界の現実に限らずとも、余人の与り知らぬ、この「わたし」の内部に生起する様々な感覚や感情、思考、記憶、想像に、明確で適切な言葉を授けることも決して容易ではない。自分のことは自分が一番よく分かっていると胸を張って断言し得る人は、余程成熟した賢者か、若しくは絶望的な愚者であるか、その何れかである。自分自身との対話、つまり、自己の内部に生起する名状し難い諸々の事柄に相応しい言葉を発見する努力は、常に欺瞞的な主観の制約を被らざるを得ない。適切な表現を物事に与えるというのは難事であるが、それは訓練によって磨かれ得る能力である。誰も生まれた瞬間から自在に言葉を操れる訳ではない。必ず後天的学習の機会と時間を大量に、繰り返し持った結果として、言葉による表現や意思疎通に熟達するようになるのである。
 言葉は指標であり、記号であり、何かの代理的表象である。「犬」という言葉は「犬」そのものとは完全に無関係である。しかし、言語的時空においては、この「犬」という単語は「犬」という実体の代役を担って振舞うことを許されている。言い換えれば、言葉には、言葉専用の世界、体系、秩序、律法、領域が存在しているのだ。そして、或る音声の連なりが、特定の事物の代役を担うという仕組みは、この世界全体を特定の記号的体系に縮約し、還元することを可能にしている。言い換えれば、言葉というのはそれ自体で、一つのvirtualな空間を構築し、運営しているのだ。言葉の全体は、我々の世界全体の反映であり、世界を可知的なものに変える為の制度である。世界を我々の認識と理解に供する為の手段として、言葉は存在している。

My Reading Record of “HARRY POTTER and the Order of the Phoenix” 1

 英語学習の一環として取り組んでいる J.K.Rowling,HARRY POTTER and the Order of the Phoenix について、未だ読了には至らないが感想の断片を書き遺しておきたいと思う。
 英文のペーパーバックで概ね800頁に及ぶ本書は、シリーズ全篇を通じて最大の分量を誇っている。今年の一月下旬に注文したiPadが四月下旬に漸く入荷し、念願の購入に至ったので、最近はKindleの簡便な辞書機能に頼りながら、果てしない繙読の旅路を辿っている。私の錯覚に過ぎないかも知れないが、巻数を追う毎に英文の難易度が徐々に上昇しているような印象を受ける。それは物語そのものの内容が、着実にシリアスで酷薄な、もっと言えば陰鬱な様相を強めていることと無縁ではないように思われる。主人公であるハリー・ポッター自身の学齢の上昇に比例して、彼が直面する課題の苛烈さは深刻の度合いを増しており、闇の勢力の首班であるロード・ヴォルデモートの肉体を伴った復権が、物語の全篇に亘って陰惨で不穏な雰囲気を浸潤させている。
 私の繙読の現在地は、ホグワーツの生徒有志によって秘密裡にDumbledore's Armyが結成された辺りである。この私的な盟約の成立に至った背景には、闇の勢力を率いるヴォルデモートの復活と暗躍という事実を承認しない魔法省の弾圧的政策が関与している。魔法省のトップであるコーネリウス・ファッジは、ダンブルドアを政敵と見做し、自らの地位と権威が脅かされることを怖れて、ホグワーツへの干渉を強める。ヴォルデモートの復活という事実の隠蔽に奔走するファッジの保身的で非合理的な政策が、ハリーを首魁に仰ぐ私兵の軍団を生み出す引鉄の役目を担ったのである。本来ならば互いに手を携えて、年来の宿敵であるヴォルデモートの復権を阻止する為に共闘すべき間柄であるファッジとダンブルドアとの間に生じた思わぬ分断が、前作の HARRY POTTER and the Goblet of Fire で実際にヴォルデモートの肉体的復活の瞬間の目撃者となったハリーの立場を極めて苛酷なものに仕立て上げている。魔法省は有力な新聞社である Daily Prophet を通じて、ヴォルデモートの復活を公言するダンブルドアとハリーの信用を失墜させる為の卑劣な言論攻撃を展開すると共に、アンブリッジをホグワーツへ送り込んで魔法省の方針に反する活動の弾圧を画策する。
 少なくとも私の繙読が済んだ限りの範囲においては、作者が主に力を篭めて克明に描き出しているのは「権力」というものの頽廃的な性質と、その醜悪な病弊である。例えば魔法省によるハリーの尋問の場面などは、現実の社会における検察組織の国策捜査別件逮捕を連想させる。緊迫した法廷闘争の描写を通じて作者は、強大な権力を掌握した人間が、社会的正義の名の下に極めて恣意的な判断を下し、真実を歪曲し、客観的公益よりも寧ろ私的な利益を優先して振る舞うことの醜さを、読者の鼻先に突きつけている。仮に作者がダンブルドアとファッジとの揺るぎない結束を前提として物語を書き進めていたとしたら、本書が800頁に及ぶ分量を要求することはなかっただろう。けれども、その場合にこの物語が失うであろう奥行きと密度は膨大な水準に達すると想像される。万人が巨悪と認める存在との闘争は、もっと単純な形で描くことが出来る主題であるが、作者の現実的精神は、そのような空疎な神話を、簡明な英雄譚を愛さなかったのだろう。ハリー・ポッターの物語は主として十歳前後の少年少女を読者として想定しているらしいが、作者自身は、この物語を無垢な子供たちに奉仕する御伽噺の範疇に閉じ込めておく意志を持たなかったに違いない。物語の外観が「魔法」という幻想的な扮装を纏っていることは事実だが、それは作者が、年少の読者も含めて、我々が現に暮らしている社会の真実に無関心であることを聊かも意味しない。疑いようのない現実を軽視し、矛盾に満ちた政策を濫発する権力者への不信や、社会的分断の深刻化、格差の拡大、謂れなき誹謗中傷と差別は、特に昨今の新型コロナウイルスの流行によって一層克明な仕方で、我々の日常生活の随所に浮かび上がり、既定の事実として認識されている。無論、芸術的作品が時事的な問題との間に明確な相関性を備える義務は存在せず、そもそも本書が刊行されたのは今から二十年近くも前のことである。ただ、優れた芸術家は現実の渦中で生起する色々な出来事から、夥しい材料を吸収し、その重要な本質に明快な形象を賦与する。それゆえに我々は、虚構の物語を通じて、身も蓋もない現実の生々しい感触に共振することが出来る。魔法の扮装は、苦々しい真理を幼い患者に服用させる為の糖衣のようなものである。そして、成熟した大人には子供騙しの糖衣など不要であると、心から断言することは必ずしも容易な仕業ではない。ハリーが直面する種々の困難は何れも、成熟した人間でさえ深刻な苦闘と挫折を強いられかねない、人類の普遍的懊悩の一種なのである。

Harry Potter and the Order of the Phoenix (Harry Potter 5)

Harry Potter and the Order of the Phoenix (Harry Potter 5)

  • 作者:Rowling, J.K.
  • 発売日: 2014/09/01
  • メディア: ペーパーバック
 

 

Cahier(A Significant Difference between Ruin and Decay of Yukio Mishima)

*自分自身が徐々に年齢を重ねて、まだ致命傷には至らずとも、肉体の随所に色々な不具合、或いはその予兆のようなものを感じる機会が増えてくると、否が応でも「若さ」というものの価値を考えずにはいられない。これは誰もが経験する不可避の通り道であり、重要な岐路であって、生まれてから当面の間は、右肩上がりの眩い成長を何の疑問も持たずに受け入れ、その奔流に呑まれながら漂うのだが、或る時点から、そういう無条件の発展や、無尽蔵の活力の蕩尽、無思慮と情熱だけを糧に行動し、多少の負荷ならば平然と踏み躙ってしまえる、あの比類のない異様な生命力のようなものが、確実に目減りしつつあることに早晩気付かされる。少なくとも一定の良識的な知性と自己認識があるならば、その変化は確実に感知されることになる。成長と回復の輝かしい軌跡が重大な分水嶺を知らぬ間に幾つも踏み越え、不可逆的な衰弱の兆候が様々な局面で露わになる。それは普遍の生物学的宿命であり、人類に属する全ての個体が今まで一度たりとも免れることの出来なかった絶対的な、悲劇的な末路である。従って、それ自体を不幸だと言い募るのは傲慢な嘆きに過ぎないかも知れない。けれど、例えば仏陀は人間の根源的不幸と痛苦を表す「四苦」という概念を「生老病死」の四つで構成した。つまり、老いることは紛れもない人類的不幸なのである(尤も、生まれること、生きること自体が既に「苦」の源泉であると仏陀は喝破しているのだから、老醜のみを殊更に強調する必要も必然性も存在しない)。

三島由紀夫の遺した作品には、老醜に対する忌避と、美しい夭折への憧憬が繰り返し刻まれ、入念に彫り込まれている。この異様なオブセッションは、何を意味するだろうか。一般に老いることへの恐怖は、来るべき滅びの予感に対する絶望的不安と密接に結び付いている。避け難い滅亡への恐怖心が、老齢の境遇に対する否み難い嫌悪と怨嗟を醸成する。けれども、三島の場合、老醜への恐怖は、直接的に死や滅亡の恐怖と短絡する情念の働きではない。例えば代表作「金閣寺」における溝口の暗い妄執、戦時下の金閣と共に空襲の劫火に焼かれて心中することへの期待は、明らかに死を怖れる者の心理ではない。寧ろ彼は、生きることへの堪え難い嫌悪を常に病んでいるのである。未来が塞がれ、死が必定の運命であるような世界(一般にそれは「戦場」である)、そのような未来の断絶と消滅が、却って虚無的な慰安を齎す。つまり、彼は死や滅亡よりも「衰弱」を恐れるような、特異な審美的感受性を備えているのである。三島の思想信条は絶えず、こうした審美的規範によって支えられ、養われていた。見苦しい長寿への根深い嫌悪、若く健康的な、美しい肉体への欲望、つまり「衰退」を否定する感受性は、劇的な「滅亡」に対するパセティックな衝動と矛盾しない。醜く衰えることは断じて拒否するが、華々しく滅び去ることには躊躇しない。要するに三島にとって重要な問題は「善き生を営むこと」ではなく、専ら「美しい死を遂げること」の裡に存したのである。その観点から眺めるならば、生前の過程は全て「美しい死」という瞬間的な頂点の効果を高める為の精緻で迂遠な伏線に過ぎない。言い換えれば、生きることは仮面舞踏会に過ぎない。重要なのは劇的で鮮烈な幕切れであり、その瞬間に爆発する芸術的成果である。三島は作品の執筆に際して事前に詳細な設計を行い、最後の一行を決めてから起筆する習慣であったと何かで読んだ覚えがあるが、そうした芸術的創造における手法は、単なる技術的問題に留まらず、彼自身の生涯、人格、根源的信条と緊密に相関したものだったと思われる。彼にとっては「結論」が全てなのだ。生きることそのものの歓喜は余慶に過ぎず、万事、或る劇的な終幕へ向かって巧妙に配置され、選択された出来事の連鎖に過ぎない。彼は不確定な要素を忌み嫌っている。周到な準備によって、自分の人生を壮麗な悲劇に昇華させることが宿願である以上、計画は能う限り、完璧な手順で遂行されねばならない。こうした考え方が、戦没した若者への共感や「葉隠」への傾倒、自衛隊に対する蹶起の煽動、要するに経済的繁栄と肉体的健康を露骨に奨励する「戦後民主主義」というレジームに対する保守的な反発、敵愾心と同期している事実は否定し難い。三島の表現した異様な「死の倫理学」は、諸々の艱難辛苦を乗り越えて生き延びようとする健気な人々の心を励ましたり慰撫したりするものではない。近年、無闇に三島由紀夫を再評価する声が聞かれるが、彼の作品は本来、社会の健全な主流派の歓心を贖ったり、幅広い層の共感を喚起したりするものではない筈である。言い換えれば、社会的秩序の荒廃や劣化が、三島由紀夫のような反動的思想に対する需要を促進しているように思われる。そのことの善し悪しは一概に言えないが、三島由紀夫の文学が持て囃され、寵愛される社会というのは、余り居心地の良い世界だとは思えない。

Cahier(Praying for the miraculous rain, We must have been home alone)

*三度目の緊急事態宣言が東京都、大阪府兵庫県京都府に対して発令され、「人流の抑制」という御題目の下に、政府及び自治体は広範囲の業種に対する休業要請に踏み切った。大阪と兵庫で猛威を揮う英国型の変異株が全国的に拡大し、深刻な医療危機を惹起することを懸念すると共に、巨費を投じて準備を進めてきた国威発揚プロジェクトたる東京オリンピックパラリンピックの強行に、感染爆発が支障を来すことを怖れたのだろう。感染制御に失敗し、国際的なイベントの開催を断念した極東の二流国という不名誉な称号を冠せられることを、政府首脳は危惧しているのではないか。
 新型コロナウイルスの鎮圧が容易ならざる難業であることは、世界的な蔓延の現実を見れば明らかであり、政府の無為無策を声高に批難することは、少なくとも私にとっては虚しい。輿論は、オリンピックの為に国民の生活が蔑ろにされているという怨嗟の声で破裂寸前である。事実、そうなのかも知れない。一年経っても日々の新規陽性者数は高止まりを続け、島国であるのに異国の変異株の流入を抑えられず、医療体制の整備は遅々として進まず、繰り返される緊急事態宣言は毎度延長され、結局は深刻なリバウンドに帰結してしまう。少なくとも、日本の感染対策が成功しているとは言えない。ワクチンの確保も接種も先進国最低の水準で、最早「先進国」という肩書に相応しいのかどうかも疑わしい。
 経済的困窮を強いられている人々にとって、度重なる時短・休業要請は、不当な極刑判決にも等しい響きを伴って迎えられているだろう。誰も積極的に協力したいとは思わず、不承不承従っているだけだ。だからこそ余計に、誰が見ても明らかに「人流拡大」の最善策と思しきオリンピックが、夥しい税金に支えられて敢行されるという事態に、多くの人々が強い違和感を覚えるのは当然の成り行きである。「人流抑制」を目的とした事業活動の制限によって生活の困窮に追い込まれているというのに、支払った税金で「人流拡大」のビッグイベントが挙行される。これは明らかに矛盾であり、しかもオリンピックの開催の可否は、人間の一存で定まるもので、ウイルスのように人間の意向と無関係に襲い掛かる天災とは性質が異なる。オリンピックの開催によって感染爆発が惹起され、死人が出たら、それは天災ではなく人災である。
 最早、何の為にオリンピックが開催されるのか、多くの人々は理解出来なくなっているのではないか。中止したら、オリンピックに命を懸けているアスリートが憐れだという意見もあるだろう。しかし、挫折を強いられているのはアスリートだけではない。色々な立場の人が、感染対策の名の下に、本来の自由で理想的な生活を抑圧するように命じられているのである。アスリートだけを優遇する必要性は、多くの人々にとっては存在しない。尚且つ、コロナ対応に忙殺され疲弊している医療関係者が、オリンピック開催によって附随的に惹起される莫大な医療的ニーズを祝福するとは思えない。
 一体、誰が幸せになるのだろうかと思う。せめてオリンピックの開催を断行するならば、ワクチンの確保や接種に関してもっと迅速な実行力を発揮しておくべきだったのではないか。ワクチンの接種も儘ならないのに「Go To キャンペーン」を実施して人流を促したり、二度目の緊急事態宣言を「飲食店時短営業」だけの実質的な骨抜き状態に稀釈して発令したりしておきながら、この期に及んで休業要請、ステイホームと言われても、誰も納得しないだろう。「短期集中型で感染を抑え込む」と菅総理は威勢の良い号令を掛けているが、本人だって信じてはいないだろう。過去二度の緊急事態宣言は何れも延長されている。それなのに、従来よりも感染力が強いと言われている英国型変異株の抑制に、たった17日間の社会的活動自粛(しかも、業種・地域共に全面的なものではない)で立ち向かえる、克服出来ると信じ込むのは殆ど妄想に等しい。雨乞いのようなものである。
 仮に効果が出て、感染者数が減少に転じたとしても、オリンピックによって人流が促進され、再び感染爆発が惹起されることも眼に見えている。ワクチンの接種が、どれくらいの速度で進捗するのか分からないが、JX通信社の調査によれば、回答した570の自治体のうち、約半数が年内の接種完了は困難であるという見通しを持っているそうだ。そうだとすれば、所謂「集団免疫」の形成にも当分、日月を要するだろうし、インド由来の二重変異株が仮に蔓延すれば、ワクチンの効果自体が限定的且つ懐疑的なものとなり、社会的活動の制限は長期化するだろう。それによって齎される日本の経済的疲弊、政治的不安定化は、我々の未来を暗澹たる色彩で塗り潰すだろう。それに新型コロナウイルスは、人類の経験し得る最後の感染症という訳ではない。

Cahier(A Man who has been dry, without compassion for others)

*自分はどういう人間なのか、それを客観的に査定し、評価し、把握することは容易ではない。自分で自分の感情や信条や、抑圧された無意識の想念を適切に解剖し、その構造を闡明するのは一朝一夕に為し遂げられる些事ではない。何処まで突き進んでも、人間の認識は畢竟、主観性の監獄を突破出来ないし、自分自身の言動を綜合的な視野の下に一望することは極めて困難である。
 だからこそ、自分の内なる漠然とした、曖昧模糊たる情動や思念を明確で理性的な言葉の列なりに置換する営為は地道に繰り返されなければならない。人間が文章を書くのは、単に他者との回路の開拓を求めているからに留まらない。自分自身の思考を整理し、首尾一貫した理路を与え、自分が本当は何を考えているのか、客観的な形象として構築しなければならない。自分のことは自分が一番よく分かっていると断言するには、相応の努力の蓄積と、沈着な勇気が必要である。
 最近、自分はどういう人間なのかという主題を巡って彼是と考える時間を持った。そして、自分自身で自覚している以上に、私という人間は、他者の感情や思考に「共感」 compassion する能力が薄弱なのではないか、他者に対する関心が極めて稀薄なのではないかと感じるようになった。無論、それは直ちに他者との関係性に致命的な障碍を抱えているという意味ではない。人並みに妻子を持ち、勤め先は小売業であるから、日々不特定多数の顧客と接するし、アルバイトの従業員を数多く雇用しているがゆえに、年齢や性別、社会的立場の多様な人々と日常的に意思の疎通を図りながら働いている。だから、他者とのコミュニケーションに特筆すべき困難を感じているという訳ではない。しかし、周りから言われること、特に最も身近な存在である妻から指摘されること、そして自分自身の過去の行跡を顧みて得られた認識などを考え合わせると、根本的な部分において、私は他者の存在に主要な関心を置いていないのではないかという有力な仮説に行き着いた。
 妻に言われて腑に落ちたのは、私という人間の日頃の振舞いを観察する限りでは、他人に自分を理解してもらいたい、承認してもらいたい、称讃してもらいたいという欲望が稀薄なのではないかという指摘である。無論、私だって他人から褒められたり讃えられたりすれば気分は良い。けれども、他人の称讃を得る為に行動するのは恥ずべきことだという考えが根本的に存在しているように思う。理解されたくないという訳ではないが、理解されないならされないで別に構わないという冷淡な断念のような感情が、胸底に息衝いているのである。そして、他人に理解されないとしても、自分が望む道筋であるならば、そのまま突き進めばいいと考えている。他人の意見にも耳を傾けることはあるが、他人の意見に著しく影響されることは滅多にない。具体的な誰かに憧憬や尊崇の念を懐くことも殆どない。自分は自分、他人は他人で、そう簡単に相互的な理解へ辿り着ける筈がないと思い込んでいる。つまり、自他の領域の線引きが明確なのである。
 自他の領域の線引きが明確であるということは、言い換えれば、他者への共感が稀薄だということだ。それゆえ、他人の懐いているであろう様々な感情に、想像的な仕方で共鳴するという経験に乏しい。そもそも、感情が波立つことを余り好まない性格である。情緒的な不安定さによって、冷静な判断力が狂うことを嫌っているのだ。他人の感情に引き摺られて、自分も同じ心理的状態へ移行することを、原則として望んでいない。寧ろ成る可く冷静に、適切な距離を確保して、相手の状態を観察し、対処の手順を考えることに重きを置く。他者の感情に、想像的な仕方で没入せず、根本において、自他の明確な境界線を維持しようと企てている。とはいえ、他人に極端な関心を寄せないということは、別に他者という存在全般を嫌悪しているという意味ではない。コミュニケーションに苦痛を覚える訳でもない。単に、共感という作法が不得手なだけだ。そして共感の機能に関して基礎的な欠落が存在する分、他者の言動を冷静に観察し、分析することには長けている。感情を交えずに、客観的な観察の対象として他者を遇することが出来るのである。
*何故、他人への関心が稀薄なのか。相対的に考えれば、その分だけ自分自身への関心が強いということだろう。内向的、或いは内省的な性格で、他人との共同的な一体感よりも、自分自身の独立性や主体性を重んじているのである。自分自身の課題に集中したいので、他者の問題に深入りしようとは考えないし、仮に深入りしたとしても、飽く迄も問題の当事者は本人であり、本人の力で解決すべきだという方針は揺るがない。忠告や支援はしても、最終的な決定は自分の関知すべき事柄ではないと考えている。相手の感情に同調する姿勢が稀薄で、飽く迄も自分の意見に固執するので、冷淡な人間だと思われ易い。共感によって繋がるのではなく、専ら会話や議論を通じて相互理解を深めることを好む。名状し難い感情というものは、共有し得ないものだと認識している。相手がどうして、そういう感情を懐いているのか、理智的な分析を実行することは出来る。しかし、相手の感情を自分自身の感情として感受することは稀である。何故なら、他人は他人であり、自分は自分であるからだ。それゆえ、他人の意見に影響され難いし、相手に自分の意見を認めてもらいたいと切実に熱望することもない。理解してもらえれば嬉しいが、理解されることが最終的な目標であるとは言えない。そうした特徴は、このブログに収められている数々の文章の性質を徴する限りでも明瞭であるように思われる。明らかに私は、何よりも先ず自分自身の為に文章を書いていて、読む人の都合や立場を余り考慮に入れていない。より多くの人々に読んでもらう為の工夫を凝らしていないし、読者を愉しませる為の仕掛けや調整も徹底的に怠っている。読んで理解してくれる人が顕れたら勿論光栄に思うし感謝もするが、だからと言って、その人との間に強固な紐帯を築こうとは思わないし、そもそも、本当に理解してもらえているかどうか、疑わしいと考えている。
*他者に共感しないということは、他者の感情に影響されず、支配されず、振り回されないということである。同じ感情を懐くことより、銘々の感情が相互に調和して、相手の感情を毀損しないことを望む。それぞれが自由に、自分らしく過ごしていればそれで構わない。無論、全体の利益の為に、それぞれが共通の規範に対して一定の隷属を受け容れることは大事である。少なくとも、その規範が理論的な合理性を有するのならば、個人の感情に関わらず、従属すべきである。しかし、感情的な一体感を強要される筋合いはない。全員が同一の感情を共有する必要も必然性も存在しない。感情がどうであれ、それぞれの行動が、全体の理念や指標との間に合理的な相関を保っているのならば、それで充分である。感情は他者によって強いられるものではなく、常に内発的なものであり、従って万人が同一の感情を保ち、同一の感情に拘束され続けるというのは、明らかに醜悪な状況である。共感は同質性を前提としており、従って共感の原理は、異質な他者を包摂する力を持たない。大体、人間の感情というのは非常に頼りない、浮薄な幻影である。永続する保証もないし、寧ろ頻繁な変容こそ感情の明瞭な特性である。それほど頼りないものを唯一の紐帯として、他者との間に継続的な関係を構築し、維持することは困難である。大半の恋愛が訣別に帰着するのは論理的必然で、息絶えることを知らない恋心は存在しない。それは理性的な愛情に発展しない限り、必ず冷却の涯に絶息し、消滅する。そして円満な結婚生活の堅持に必要なのは、共感の強要ではなく、銘々の論理、銘々の主義、銘々の嗜好の尊重である。共感は出来ないが理解は出来る、理解に基づいて必要な配慮を行なう。こうした理性的な振舞いが、継続的な愛情の涵養を可能にする。共感に固執する人ほど、相手の変節を厳しく責め立てる。嫉妬や不安に苛まれる。極端に親しくなるか、極端に忌み嫌うか、その何れかになり易い。だが、自分自身の感情を絶対視するのは奇妙である。何故なら、人間の感情は極めて移ろい易く、不安定で脆弱なもので、長い人生の唯一の指針には値しないからである。従って、共感を好まない人間が、直ちに無関心な厭世家だという訳ではない。人は共感出来ないものを愛することが出来る。つまり、他人を。何故なら厳密には、他者に共感するということは、主観的な錯覚、不可能な錯覚に過ぎないからである。他者という異質な存在を愛する為には原理的に言って、共感だけでは足りない筈なのだ。