サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

2019-11-22から1日間の記事一覧

「Hopeless Case」 11

川崎辰彦の勤める小さな出版社に、どうにかして雇ってもらおうという厚かましい魂胆が何時から椿の魂の一隅を占めるようになったのか、その明確な日付は曖昧に掠れていた。淡々とした事務的な物腰で、零細企業の哀切な世過ぎの風景を物語る辰彦の野暮ったい…

「Hopeless Case」 10

「素敵なイヤリングだね」 川崎辰彦かわさきたつひこの然り気ない賞讃は、事務的な会話の流れに極めて巧妙に織り込まれていたので、椿は一瞬、言葉の意味を掴み損ねた。そのとき椿の耳朶に揺れていたピンクゴールドのイヤリングは、亘祐と別れてから最初に迎…

「Hopeless Case」 9

我関せずの気儘な態度を貫くには相応の覚悟が要る。失恋の痛手に冷静な理智を曇らされた椿は暫く、怠惰で自由な生活に埋もれて世捨人の境涯に身を窶していたが、早春を迎えて就職活動が本格化すると、両親や教員からの社会的な圧力は俄かに強まって、彼女の…

「Hopeless Case」 8

吹き荒れる夥しい官能的な火箭の嵐を潜り抜けて、椿の生活は潔癖な修道女のように無垢な日課を刻み続けた。別に生来の豊富な好奇心が、燃え尽きた蝋燭のように涸渇したという訳ではない。ただ、彼女は昔の軽薄な人懐っこさを慎重に排除し、他人との適切な距…

「Hopeless Case」 7

恋が醒めた途端に人は、魂を丸ごと交換したような劇しい変貌を遂げる。椿は、そもそも自分自身の魂が変貌するような恋愛を知らずに長く過ごしてきたから、亘祐と訣別した後は暫く、蝉の抜け殻のように何処へも出掛けず、余り小説も読まなかった。他人の色恋…

「Hopeless Case」 6

大学三年生の夏に、亘祐が他に好きな女性が出来たから別れて欲しいと言い出したとき、椿は束の間、彼の言葉の意味を精確に計量することが出来なかった。 亘祐はその年の春から旅行代理店の営業部員として、着慣れないスーツを窮屈そうに纏いながら、社会の真…

「Hopeless Case」 5

椿と亘祐は人前で露骨に戯れ合うことを好まなかったし、二人の絆の縺れ合いを他人の酒肴に供することも嫌っていたから、特に出口の見えない恋愛相談や厚かましい惚気話は常に差し控えた。無論、世間は狭いので、どんなに夜の暗がりに息を潜めても、新宿の眩…

「Hopeless Case」 4

武岡亘祐という男の何がそれほど、他の男たちと違ったのだろうか。いや、そんな大仰な設問は却って事態の全貌を見誤らせる弊害となるかも知れない。似たような時代と土地に生を受け、似たような境遇を過ごして、似たような大学に進んだ男が、その他の有象無…

「Hopeless Case」 3

椿は虚しい高望みに魂を引き摺られて、次々と枕を取り換える移り気な女の子だったのだろうか? 傍目には、そういう好ましくない道徳的評価が適切であるように見えることも少なくなかったに違いない。彼女の持ち前の無責任な博愛主義、殆ど趣味的な博愛主義が…

「Hopeless Case」 2

大学に進んだ後も、椿の魂を奥底から震撼する力を備えた男性との出逢いは中々得られなかった。聊か怠惰で、生真面目で情熱的な大学生を演じる意欲も欠いていた彼女は、入学を機に今までの自分を改革しようなどという殊勝な心掛とは無縁だった。だから、周囲…

「Hopeless Case」 1

椿つばきは幼い頃から読書を好んだ。文字に興味を覚えるのも早く、平仮名や片仮名を目敏く見つけては、両親に読み方を教えろと忙しなくせがんだ。どんな遊びよりも絵本の読み聞かせを最も深く愛し、どんな奇怪な空想でも、見知らぬ異郷の物語でも易々と受け…

「古都」 14

何処へ向かって歩いていく宛もなかった。持て余した退屈で孤独な時間の有意義な使い途は、私の脳裡に浮かばなかった。ぶらぶらとJRの駅前まで散策して、忙しない雑踏の風景に我知らず気圧された揚句、私は愈々途方に暮れて立ち止まった。 秋南と最後に酒を…

「古都」 13

秋ちゃんは、少し鼻っ柱が強いだけで、根っこの部分は優しく、素直で可愛らしい女の子でした。傍目には活発で、姉の言うことに逆らってばかりの我儘娘でしたが、それは抑え付けられた感情の、健全な恢復の為の手段だったのではないかなと、総てが手遅れにな…

「古都」 12

思いもしないときに、例えば夏の夕暮れに、痩せた蝙蝠の影がオレンジ色の街燈へぶつかるように、突然に破局というものはやってくる。いや、思いもしないなんて言い方は、本当は嘘っぱちだ。少しずつ知らない間に浴室の壁に黒黴が繁殖していくように、それは…

「古都」 11

秋南は何時しか、京都での生活を忌み嫌うようになりました。私たち夫婦にとって、夏は噎せ返るほど蒸し暑く、冬は身を斬るように寒い京都の町は、それでも紛れもない故郷であり、人生の根拠地です。秋南だって、その古都の懐に抱かれて大きくなったのです。…

「古都」 10

秋南は快活で、何処か息子のような娘でした。人形で遊ぶより、母親の真似をしてオママゴトに興じるより、外光を浴びて、外気のただ中で、汗の滴を陽に燦然と燃やしながら走り回っている方が、あの娘の性には合っていたのです。小さい頃、自転車に跨って淀川…

「古都」 9

私は厳しく躾けられて育ちました。母は真宗の敬虔な信者で、子供の頃、しばしば本願寺へ連れ歩かれたのを覚えています。夏の京都の白く眩しい光の中を、私は退屈しながら歩きました。虹色の小さなサンダルが、アスファルトに灼かれて熱かった。帰り道に、昵…

「古都」 8

小さい頃の記憶は、きれぎれにある。あたしが未だ幼稚園に通っていた頃、ママはいつも言っていた。そんなお転婆なことは慎んで、と。慎むという難しい言い方も、しつこく繰り返されるうちに、あたしの小さな耳によく馴染んでいた。思えば、それが総ての始ま…

「古都」 7

伯母と言葉を交わすのは久々だった。暫く見ない間に皺が増え、白髪が増え、背丈が縮んだ。身内が逝く度に、命の深い部分を削られるのだろうか。況してや今回は、最愛の娘なのだ。啀み合う日々が続いていたにせよ、開いた傷口から濫れる血潮は並大抵の量では…

「古都」 6

勿論、好きにすればいい。秋南の人生は、秋南のものだ。人から事細かに指図を享けながら築き上げた人生に、如何なる意味があるだろう。だが、誰も自分自身の本当の欲望の正体など、理解していないのが世の常ではないだろうか。これが自分の希望だと信じ込ん…

「古都」 5

新米ながら熱心に働いて、長時間労働も厭わず、それなりに容貌の見栄えがして明るく人懐っこい気質であれば、自然と男が出来るのも不思議ではない。化粧品売場を管理するマネージャーの一人と親しくなり、幾度か食事に誘われて、酒を酌み交わすうちに言い寄…

「古都」 4

毎年の夏の休暇に、母の郷里である京都へ帰省するのは、私の幼年期から続く我が家の慣習であった。蝉時雨が一斉に間断なく行われる打ち水のように姦しく鳴り響く古びた街衢へ、幼い私は何時も華やいだ特別な気持ちで旅した。東京駅から新幹線に乗り込み、母…

「古都」 3

強力な空調の吐き出す冷えた空気が、黒い礼服の繊維の一筋毎に深く染み込んだ苛烈な暑気の残滓を払った。降り注ぐ燦爛たる陽射しに堪えかねて緩めていたネクタイを不図思い出し、入念に締め直してから歩き出す。受付で名乗り、神妙な面持ちに一縷の柔らかな…

「古都」 2

停車した名古屋駅で、私は束の間の転寝から目醒めた。豪勢な弁当を平らげてデッキの喫煙所で一服し、席に戻って持参した読みかけの小説を開いたところまでは覚えていたが、そこから先の記憶はトンネルに吸い込まれたように闇に融けて再生が出来ない。米原を…

「古都」 1

その日、午後から東京は酷い雨が降るという予報で、その分厚い雨雲と暴風の野蛮な交響曲に捕まる前に颯爽と出発したいというのが、そのときの私の希望の総てであった。駅舎の地下深くに押し込まれた、古代の墳墓のように寒々しい総武線快速のプラットフォー…

「昊の棺」 9

それから私は、潮風の吹き荒ぶ崖の上で、知らぬ間に眠りに落ちていた。眠っている間に、夢を見た。 私は住み慣れた西船橋の家で、寝る仕度を整えていた。何故か傍らには、裸体の夏月が寄り添っていた。その表情は霞んで、傷ついたディスクのように読み取れな…

「昊の棺」 8

過去は過去であり、現在とは区分されるべきである。その区分を守る為に、人間の脳には忘却という機能が生まれつき組み込まれている。だが、過去は黒い光のように、閉ざされたドアの隙間から、明るい未来の方角へ向けて射し込む。純白のドレスを掠める、不吉…

「昊の棺」 7

夏月は離婚すると言った。浮気相手の商品企画部の係長は過去に妻と死別していて、小さな男の子を抱えていた。とても優しくて寛容な人なのと彼女は落ち着いた口調で説明した。言外に含まれた、硬い棘。貴方とは違う人なの。何が違うのか、そんなことは、重要…

「昊の棺」 6

逢瀬は、その後も人目を忍びながら、翌年の春先までダラダラと続いた。私たちの関係は肉体的なものであり、享楽を目的とした儚い紐帯に過ぎなかったので、結婚を考えるとか、大袈裟な野望には話が及ばなかった。 会わなければ気が狂いそうになるといった、初…

「昊の棺」 5

軈て、私の側に異変が起きた。大病を患ったとか、精神を病み始めたとか、そういった陰惨な変事ではない。要するに私は、満たされぬ想いを晴らそうとして、他の女に手を出してしまったのである。 相手は、その春から私の勤務する印刷会社に新卒採用で入ってき…