サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

文化・芸術・娯楽

百年先も、古びない言葉を

言葉は、時々刻々と古びていく宿命を背負っている。或いは、言葉は「ナマモノ」であると言い換えることも出来る。単純に語彙や文法が古びて、時代の一般的な通念に合わなくなっていくだけではない。その言葉が発せられた当時には意味のあったことでも、時代…

表現することは、肯定すること

どうも今晩は、サラダ坊主です。 今日の記事の主題は、表題に掲げた通り、「表現することは肯定することではないか」という着想に就いて、考えを巡らせることにあります。 何故、表現することが肯定することと結び付けられるのか、という疑問を、いきなり抽…

あらゆるものを語ろうとする欲望の結晶

小説や詩歌、それら一般に「文学」と称されるものの本質は、あらゆる物事を言葉に置き換えようとする偏執的な欲望の衝動に存すると、私は思う。絵画があらゆる色彩と光と形態を描き尽くし、音楽があらゆる旋律と響きを奏でることを試みるのと同じく、文学は…

文学的「悪食」の精神

小説に限らないが、例えば小説に代表されるような芸術的な作物というものに関して勝手な印象を懐くのは個人の自由であろう。或る作品に触れて、どのような感想を持つかは体質によっても趣味によっても異なるのは当然である。だが、たまに出喰わすのが「読み…

「神話の解体」としての小説・不可避なユーモア

小説の役割は、神話的な超越性とその厳粛な面差しを破壊することに存する。小説が所謂「物語」との間に決定的な断絶を見出すのは、こうした事情に拠っている。「物語」は、神話的な超越性や、その厳粛な外観との間に著しい親和性を有している。 だが、こうい…

少しずつ、何かが溜まっていくように

去年の春先から断続的に書き継いでいた一〇〇枚ほどの小説を、或る新人賞へ送った。それで一つ区切りがついたような気分になって、新しい小説を起稿した。このブログにアップしているファンタジー的な作品とは毛色の違う内容である。思いつくままに書き進め…

「芸術」は本質的にビジネスではない

芸術はビジネスとの間に接点を持ち得るが、本来的にはビジネスとは無関係な領域である。芸術がビジネスとして成立し得るのは、あらゆるものを商業的な領域に引き摺り込もうとする資本主義的ドライブの要請であるに過ぎない。 だが、現代のようにあらゆる事象…

成長の拒否ではなく、無効化 ゆうきまさみ「究極超人あ~る」

ゆうきまさみの傑作「究極超人あ~る」は、学園を舞台に据えたコメディであり、その意味では有り触れた類型の一部として回収されてしまうかもしれない。実際、この作品に詰め込まれている種々のマニアックな細部やユーモアは、爆笑に次ぐ爆笑を呼び覚ます為…

「表現」の価値 / 「伝達」の価値

或る事物の価値を、その商業的な効果によって推し量るという習慣は、資本主義の原理に骨の髄まで犯された現代の私たちにとっては、日常的に慣れ親しんだ作法である。糊口を凌ぐために、少なくとも何らかの形で商売に携わる以上は、誰しも「売上」という問題…

小説を書くという、不自然な営み

小説を書くという行為は、極めて不自然な作為の連続であり、そこに作者のナチュラルな声というものの生起を期待することは出来ない。たとえ現実の出来事を素材に用いていたとしても、小説は本質的にフィクションであり、嘘を塗り重ねる営みである。それは自…

「小説」の多様な生態系

話は小説に限らないが、小説ということに的を絞って書かせてもらうと、人間がそれぞれの個性というものを不可避的に備えざるを得ないことと相関するように、小説というのは実に多様な形式を取り得るし、それらは一見すると互いに全く異質な原理によって綴ら…

「プレステ」の時代と、私の追憶 2 「アストロノーカ」(1998年)

当時エニックスから発売された「アストロノーカ」を知ったのは、確か「ファミ通」がきっかけであったように記憶している。或いは「スターオーシャン・セカンドストーリー」に附属していた体験版が購入の契機であったかも知れない。何れにせよ、このゲームは…

少年は己の半身と対決する ル=グウィン「ゲド戦記」

アメリカの作家アーシュラ・K・ル=グウィンの「ゲド戦記」第一巻「影との戦い」のハードカバーを図書館で借りて読んだのが、幾つの時だったかはもう覚えていない。小学生時代の私は図書館へ通うのが日課のようなもので、ゲド戦記を手に取ったのは恐らく、…

海を走る電車

宮崎駿の「千と千尋の神隠し」に、千尋とカオナシが電車に乗って、海の上を渡っていくシーンがある。「風の帰る場所」(文春ジブリ文庫)という本の中で、宮崎駿はこのシーンのことを「作品の山場」と呼んでいるが、実際あれは物語の重要な転換点になってい…

豚のダンディズム、アドリア海の静寂

宮崎駿のインタビューを集めた「風の帰る場所」(文春ジブリ文庫)を読んでいたら、「紅の豚」に関するインタビューがあり、あの作品の中で描かれていた景色の断片が眼裏へ甦ってきた。 小さい頃から「ナウシカ」やら「ラピュタ」やら「トトロ」やらを繰り返…

植松伸夫「ザナルカンドにて」

植松伸夫の作曲した「ザナルカンドにて」は、極めて美しい旋律の曲だ。スクウェアから発売されたPS2のロールプレイングゲーム「FFX」の中で印象的に用いられたこの楽曲には、単なるゲームミュージックという枠組みを超越したクオリティが宿っている。…

組織の論理、個人の論理 映画「64」に関する覚書

大雨の降り頻る月曜日の朝から、幕張新都心のイオンシネマまで「64」の前篇と後篇を纏めて観覧する為に出掛けてきたので、作品の感想を書き留めておく。ネタバレを嫌う方は、作品の鑑賞後に読んで頂きたい。 横山秀夫の硬質な警察小説を下敷きに作り上げら…

「ドラえもん」の不気味な側面

現代に暮らす日本人の大半は「ドラえもん」を知っている。これは普通に考えて恐るべき真実だ。少子化が進み、出生率が低下の一途を辿り続けているとはいえ、日本列島には一億人を超える日本語話者が存在しており、その一億人以上の日本語話者の大半が知って…

基礎教養としての「ジブリ」映画

私が小さい頃、時代は未だVHSのビデオテープが全盛期で、DVDやBDは片鱗すら見当たらなかった。母親が二人の息子の為にせっせとダビング(この言葉も、今では余り耳にしない)してくれた様々なアニメーションが、幼少期の私にとっては大切な「教養」であった…

物語の快楽(あるいは、温故知新)

物語は、本質的に無人称的な視野から語られ、表象される。それは特定の主観的な視野から、個人の責任に基づいて紡ぎ出されるのではなく、もっと自由で不可解な視点によって統制される対象である。物語には、便宜的な始まりと終わりが設けられるが、原理的に…

痛ましい愛情の形 椎名林檎「ギブス」

以前に「音楽」というカテゴリーを自ら設けておきながら、一向にそのジャンルに関する記事を作成してこなかったので、偶には趣向を変えて椎名林檎の楽曲に就いて書いてみる。 椎名林檎の「ギブス」が発表されたのは、確か私が中学生の頃で、その金属的な音色…

海外文学の異郷性

「異郷性」という言葉は、恐らく世間一般に流通している日本語の辞書の中には記載されていない単語である。何故なら、私がこの文章を著すに当たって適当に拵えた造語であるからだ。造語と呼べるほど画期的な意味の豊かさを備えている訳ではないが、一般的な…

近未来・スチームパンク・異なるものを結び合わせること

所謂「SF」というジャンルに関する私の知識は極めて貧相な代物である。ウェルズ、ブラッドベリ、ハインライン、アシモフ、クラーク、ヴォネガットといった御歴々の輝かしい名声だけは聞き齧ったことがあるが、その実作に触れた経験は殆ど皆無と言って差し支…

俗悪と権威(ビートたけし・クレヨンしんちゃん・坂口安吾)

ビートたけしの名前は、日本人ならば恐らく誰でも知っているだろう。今ではコメディアンとしてよりも「映画監督」としての声価の方が世界的に高まっているし、致命的なバイク事故以来の滑舌の悪化で持ち味のマシンガントークが精彩を欠いていることもあり、…

それは凡庸で退屈な感傷に過ぎないのだろうか? リュック・ベッソン監督「レオン」

私は熱心な映画愛好家ではなく、映画館に足を運んで二時間余りの沈黙に閉ざされた視聴に金を払う習慣とも、それほど親しい訳ではない。映画館へ足を運ぶ習慣が多少なりとも自分自身の生活サイクルに入り込むようになってきたのは、ここ数年間の話で、それも…

自分勝手に書くこと 「一般論」という陥穽に抗して

私がこのブログを運営するに当たって心掛けていることが一つある。誤解され易い表現であることを承知の上で敢えて言わせてもらえば、それは「自分勝手に書く」ということだ。この「自分勝手」というのは、普遍性のある客観的な明快な言葉で書くのではなく、…

「物語ること」への奇怪な欲望 身も蓋もない「真実」を遮るために

人間が或る纏まった「物語」を語って聞かせようとする奇妙な欲望に取り憑かれたのは、一体いつ頃からの話なのだろうか? 無論、太古の昔から人間が空想的な物語を、恐らくは現実の事件や記憶を材料に、それを空想的な物語へ置き換えて徐々に筋書きを整備して…

蒼いプライド、路地裏のヒロイズム BUMP OF CHICKEN 「K」

音楽について語ることは酷く難しい。それは言葉について言葉で語る文学論とは異質な、異次元の難しさである。音楽は確かに何らかの意味を宿し、それによって私たちの心身に訴えかける非言語的な力を宿している。だが、それを「言葉」に翻訳して語り切ること…

「プレステ」の時代と、私の追憶 1 「moon」(1997年)

私が小学生低学年だった頃、テレビゲームの世界は任天堂のスーファミ(スーパーファミコン)の全盛期だった。ドラゴンクエストやファイナルファンタジー、クロノトリガーといった国産RPGが爆発的なヒットを記録し、私たち小学生は夢中になって、電子的な…

「斃す」のではなく「隠れろ」 「メタルギアソリッド」の齎した革命をめぐって

長い間、私にとってゲームとは「敵を倒す」ことこそ正義であるような世界だった。次々に現れる敵を倒すべく、例えば「ぶちスライム」を延々と棍棒で殴り殺して経験値を溜め込んでいくような作業も、強くなる為だと思えば退屈でも堪えられたものだ。レベルが…