サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「無頼派」と呼ばれた男 坂口安吾

 晩夏の夜更けに千葉県船橋市の片隅からサラダ坊主がお届けしております「サラダ坊主日記」、読者が一向に増える気配はございませんが、何事も継続は力なり、せっかく開いたブログですからしばらく悪あがきを続けて参りたいと思います、どうもサラダ坊主です。

 昨日のエントリーで細田守監督の「バケモノの子」を腐したわけですが、所詮千葉県船橋市の片隅にドブネズミのごとく息を潜めて物陰を駆け回っているだけの儚い身の上である私が、巨額の金を注ぎ込み、映画会社の期待を一身に背負ってアニメ映画の製作に励んでいる偉大な社会人を、適当な思い付きで貶したって何にもなりゃしませんね。ですから今夜は趣向を変えて、自分の愛するものを称賛するような一文を草したいと思い立ち、こうして夜更けにまた懲りずにVAIOの電源をturn onした訳であります。

 ということで、取り上げるのは表題にも掲げました通り、昭和の作家である坂口安吾です。御存知ない方もいらっしゃるかと思いますので、下記にウィキペディアの紹介記事を貼り付けておきます。

 坂口 安吾(さかぐち あんご、1906年明治39年)10月20日 - 1955年(昭和30年)2月17日)は、日本の小説家、評論家、随筆家。本名は坂口 炳五(さかぐち へいご)。昭和の戦前・戦後にかけて活躍した近現代日本文学を代表する作家の一人である。新潟県新潟市出身。東洋大学印度哲学倫理学科卒業。アテネ・フランセでフランス語習得。純文学のみならず、歴史小説推理小説も執筆し、文芸や時代風俗から古代歴史まで広範に材を採る随筆など、多彩な活動をした。

 戦前はファルス的ナンセンス作品『風博士』で文壇に注目され、一時低迷した後、終戦直後に発表した『堕落論』『白痴』により時代の寵児となり、無頼派と呼ばれる作家の一人として地歩を築いた。歴史小説では黒田如水を主人公とした『二流の人』、推理小説では『不連続殺人事件』が注目された。

 坂口安吾の文学作品には、途中で放棄された未完の長編や失敗作も多く、小説家としての技量や芸術性・完璧性の観点からは器用な作家とはいえないが、その作風には独特の不思議な魅力があり、狂気じみた爆発的性格と風が吹き通っている「がらんどう」のような風格の稀有な作家だといわれている。

 新潟出身の文豪である坂口安吾は、太宰治織田作之助とともに「無頼派」の称号を奉られた作家で、敗戦後の焼け野原で文壇の寵児として活躍し、多くの作品を発表しましたが、若くして病気で亡くなりました。結構、風変わりな人物で、大酒呑みだし、ヒロポン覚醒剤の一種ですね)の常用で気が狂いかけたりと、滅茶苦茶な生涯を送ったことでも知られています。太宰治織田作之助も薬物中毒でしたから、まあ、好意的に解釈すれば時代の風潮のせいだったのかな? 敗戦でそれまでの価値観が180℃引っくり返ってしまった頃ですから、多少の無茶は許容されていたのかもしれません。

 こういう経歴だけ聞くと敬遠されてしまうかもしれませんが、この人の書いた小説や随筆、評論を読んでみると、単なる破天荒な人格破綻者ではなかったことがよく分かります。読んでみて一番に感じるのは、たとえ汚らしいことを扱った文章であっても消えることのない一種の「透明度」です。知性の輝きというか、本質的な清廉さというか、卑しさ、下品さのない文章を書く人で、しかも頗る機知に富んでいる。一般的な意味で頭脳の出来が良い人ではないかもしれませんが、物事の本質を捉える眼力が半端じゃないのです。しかもその眼力は、現代においても全く古びない普遍性にまで到達していると、サラダ坊主は信じています。

 たとえば、昭和17年に発表された有名な随筆「日本文化私観」の一節。

 無きに如かざるの精神にとっては、簡素なる茶室も日光の東照宮も、共に同一の「有」の所産であり、詮ずれば同じ穴のむじななのである。この精神から眺むれば、桂離宮が単純、高尚であり、東照宮が俗悪だという区別はない。どちらも共に饒舌であり、「精神の貴族」の永遠の観賞には堪えられぬ普請ふしんなのである。
 然しながら、無きに如かざるの冷酷なる批評精神は存在しても、無きに如かざるの芸術というものは存在することが出来ない。存在しない芸術などが有る筈はないのである。そうして、無きに如かざるの精神から、それはそれとして、とにかく一応有形の美に復帰しようとするならば、茶室的な不自然なる簡素を排して、人力の限りを尽した豪奢、俗悪なるものの極点に於て開花を見ようとすることも亦自然であろう。簡素なるものも豪華なるものも共に俗悪であるとすれば、俗悪を否定せんとして尚俗悪たらざるを得ぬ惨めさよりも、俗悪ならんとして俗悪である闊達かったつ自在さがむしろ取柄だ。
 この精神を、僕は、秀吉に於て見る。いったい、秀吉という人は、芸術に就て、どの程度の理解や、観賞力があったのだろう? そうして、彼の命じた多方面の芸術に対して、どの程度の差出口をしたのであろうか。秀吉自身は工人ではなく、各々の個性を生かした筈なのに、彼の命じた芸術には、実に一貫した性格があるのである。それは人工の極致、最大の豪奢ということであり、その軌道にある限りは清濁合せ呑むの概がある。城を築けば、途方もない大きな石を持ってくる。三十三間堂の塀ときては塀の中の巨人であるし、智積院ちじゃくいん屏風びょうぶときては、あの前に坐った秀吉が花の中の小猿のように見えたであろう。芸術も糞もないようである。一つの最も俗悪なる意志による企業なのだ。けれども、否定することの出来ない落着きがある。安定感があるのである。
 いわば、事実に於て、彼の精神は「天下者」であったと言うことが出来る。家康も天下を握ったが、彼の精神は天下者ではない。そうして、天下を握った将軍達は多いけれども、天下者の精神を持った人は、秀吉のみであった。金閣寺銀閣寺も、凡そ天下者の精神からは縁の遠い所産である。いわば、金持の風流人の道楽であった。
 秀吉に於ては、風流も、道楽もない。彼の為す一切合財いっさいがっさいのものが全て天下一でなければ納らない狂的な意欲の表れがあるのみ。ためらいの跡がなく、一歩でも、控えてみたという形跡がない。天下の美女をみんな欲しがり、れない時には千利休も殺してしまう始末である。あらゆる駄々をこねることが出来た。そうして、実際、あらゆる駄々をこねた。そうして、駄々っ子のもつ不逞ふていな安定感というものが、天下者のスケールに於て、彼の残した多くのものに一貫して開花している。ただ、天下者のスケールが、日本的に小さいといううらみはある。そうして、あらゆる駄々をこねることが出来たけれども、しかも全てを意のままにすることは出来なかったという天下者のニヒリズムをうかがうことも出来るのである。大体に於て、極点の華麗さには妙な悲しみがつきまとうものだが、秀吉の足跡にもそのようなものがあり、しかも端倪たんげいすべからざる所がある。三十三間堂の太閤塀というものは、今、極めて小部分しか残存していないが、三十三間堂とのシムメトリイなどというものは殆んど念頭にない作品だ。シムメトリイがあるとすれば、いたずらに巨大さと落着きを争っているようなもので、元来塀というものはその内側に建築あって始めて成立つ筈であろうが、この塀ばかりは独立自存、三十三間堂が眼中にないのだ。そうして、その独立自存の逞しさと、落着きとは、三十三間堂の上にあるものである。そうして、その巨大さを不自然に見せないところの独自の曲線には、三十三間堂以上の美しさがある。 

 どうでしょうか? 措辞は多少なりとも古びているかもしれませんが、何というか文章の背後に躍っている自由闊達な精神の息吹のようなものを感じませんか? 

 私が初めて坂口安吾の本を読んだのは中学三年の夏で、なんとなく偶々手に取って買って帰り、家で読んで鮮烈な衝撃を受け、渇いた喉を冷たい麦茶で潤すように、貪りついたことをはっきりと記憶しています。当時の私は、坂口安吾ほどではないにせよ、精神の「自由」というものに憧れ、雁字搦めの現実に鬱屈した思いを抱えていました。思春期特有の所謂「厨二病」的な苦悩というやつでしょうか? ま、よく分かりませんけど、過去の自分なので。

 とにかく、当時の私は一刻も早く大人になりたいと思い、子供であることは余りにも不自由なことだと感じていました。幸福な少年時代に郷愁を募らせるような感受性とは無縁で、色々な拘束から解き放たれたいと切実に願っていたのです(大人になってもシガラミは増える一方で減ることはない、ただ不自由な現実に麻痺するだけだということを、十代の私は愚かにも弁えておりませんでした)。そんな感受性に、坂口安吾の文章とそこに刻み込まれた思想は極めて鮮烈で輝かしい啓示のように舞い降りました。「無頼派」作家の中では、おそらく知名度も影響力もともに太宰治が絶頂だとは思いますが、私は「人間失格」になんとなく気味の悪い魅力を感じたぐらいで、没頭することはなかったです。それは私が良くも悪くも「屁理屈野郎」で、センシュアルな人間ではなかったことに由来する現象だったのかもしれません。非常に感性的で理屈では割り切れないタイプの太宰治に比べると、坂口安吾は野卑であっても遥かに論理的で、ドライなセンスの持ち主であるように思います。

 なんだかちっとも魅力を伝えられていないような気がしますが、未だに「人間失格」が売れ続けている太宰治に比べると、不当に矮小な扱いを受けているように見える坂口安吾復権を願って、皆様に申し上げます。ぜひ、彼の作品に触れて、魂を揺さ振られてみてください。無頼なのに健康、というのが彼の持ち味であり芸風です。太宰治の軟弱な色男主義より、坂口安吾の明朗快活な悪童ぶりを堪能してみて下さい。魂の羽搏く音が聞こえるような文章ですよ。

(ちなみに、ほとんどの作品は青空文庫で無料で読めますが、せっかくですから故人に敬意を表して講談社文芸文庫に手を伸ばしてみて下さい。金も暇もある方は筑摩書房の全集をどうぞ)

 以上、真夜中のサラダ坊主でした。