サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

世界を愛すること、個人的であること

 どうもサラダ坊主です。

 チラチラとアクセスして頂いているようで、こんな個人的な雑文を読んで下さる奇特な方々に御礼申し上げます。

 何の脈絡もない個人的なブログですが、暇潰しにどうぞ。

 さて、個人的なブログというのは、この世界に無限に存在して広大なウェブの大洋に漂っている訳ですが、このサラダ坊主日記も個人的も甚しいブログです。ですから、経済的に考えればこんなに不毛なデータというのは他に考えられません。だって、有名人でもなく、一芸に秀でるスペシャリストでもない、日本国中に掃いて捨てるほどいる凡庸な市井の庶民の個人的な雑感だけが綴られたデータの塊なんて、何の意味があります? そこに商業的な価値なんか発生しようがないですよね。

 そう思って、少しでも興味を惹くようなことを、と思って、このブログの最初のエントリーでは又吉直樹の「火花」とか、メジャーで話題性の高いテーマを採用して雑文を草した訳ですが、冷静に考えてみると、これって結構危険な選択であったように思います。というのは、そういうテーマだったら、つまりメジャーで話題性の高いテーマだったら、私なんかが書かなくたって本職のライター達がもっと気の利いた内容で記事を作るに決まっているんです。だったら、そこに「私」が書く理由というか、固有性、署名性なんて入り込む余地はないわけです。

 「私」が書く理由、他でもない「この私」が書く理由、それを刺青のように彫り込まれた文章だけが、こういう「個人的ブログ」においては意義を有するのだと思います。もちろん、企業などが広告宣伝費を投じて運営する商用のブログとかは別ですよ。それは立派な経済的利益の追求のプロセスとして、明確なロジックに基づいて運営されねばなりませんし、厳密なマーケティングも必要ですし、費用対効果の検討も欠かせないでしょう。 営利的なブログは、運営する主体の利益に貢献するものでなければ、その存在意義を喪失してしまうのですから。

 しかし、ここが肝心なポイントですが、個人的ブログというのは、結果として何らかの利潤に結びつくことがあるにせよ、原則として経済的利益の確保に捧げられるべきカテゴリーでもメディアでもありません。個人的ブログは、あくまでも「個人性の表現」として作成されねば意味を持ちません。なぜなら、それは普段の生活の中では適切な、そして自在な表現を与えられない「何か」を表出する秘密の空間として構成されているからです。

 個人的な思想、つまり、社会的な需要に合わせて形作られるのではなく、「この私」という単独的な存在の深奥で生起している色々な「妄念」に形を与えるために、個人的ブログというのは存在するのだと私は考えます。ですから、個人ブログが世間一般の関心事に媚びたり便乗したりする必要はありません。それが個人的な関心と重複するのであれば話は別ですが、個人ブログにとってそういう世間の関心事というのは伝達や表現の「媒介」に過ぎず、断じて目的には値しないのです。

 個人ブログにとって、唯一のテーマは「この私」であり、「この私」を軸として再編された個人的な「世界」であるはずです。「この私」の「世界」というのは本来、極めて閉鎖的な時空である訳ですが、だからこそ、その「この私」の「世界」をウェブという匿名性と任意性の牙城に送り出すことには意味があります。それは現実の社会においては簡単に黙殺されてしまうような何かであり、理解者を得ることが極めて困難であるような領域です。それが「理解」の可能性に向かって開示されるということ、最も個人的な領域が、最も広大な「世界」へ接続される可能性を掴むこと、それこそが個人ブログの画期的な魅力なのですから、半可通の素人がジャーナリスティックな記事の執筆に走るのは本末転倒であると言わざるを得ません。

 個人ブログを通じて理解者を得ること、あるいは個人ブログを通じて内なる「個人性」を開拓し、耕作し、深めていくこと。それが個人ブログのオリジナルな価値であり、結果として社会的な意義たり得るのです。偉そうなことを書くのがブログのコアではありません。誰の興味も惹かないであろう個人的な雑記であることが、個人性の涵養と世界への接続可能性を確立するための第一歩となるのです。

 その点、フェイスブックなどの「友達申請」を必要とするSNSというのは、個人性と世界性の「逆接」という重要なポイントを自ら封殺するような仕組みになっているように見えます。個人的なことには、身内しか関心を持たないだろうという予断によって、ブログ的な逆接性が損なわれているのではないでしょうか。分かりませんけど。

 今夜も纏まりのない文章となりました。船橋市の片隅から、サラダ坊主が御送りしました!