サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

野心と放心 「淪落」という倫理について 坂口安吾「風と光と二十の私と」 1

 どうもこんばんは、船橋の片隅からサラダ坊主が御挨拶致します。

 栃木県に特別大雨警報が発令され、関東甲信越はえらい騒ぎですね。

 明日から長野へ一泊二日で出かけるというのにバッドタイミング。

 

 さて、今夜は先日の「村上春樹論」に続きまして、「坂口安吾論」を掲載したいと思います。あんまり誰も読んでくれなさそうな硬めの文章ですが、以前にアップした「坂口安吾」についてのエントリーだけでは不完全燃焼なので、勝手に投稿しますので、気が向いた方、偶然目に触れた方、ぜひご覧になってくださいませ。

 それでは、どうぞ!

 

 坂口安吾は「堕落論」その他の様々な著作を通じて、既存の道徳的な教条主義に対する叛意を語っている。その最も端的な表現を、その始原の風景における回想を挙げておこう。

 私はこの不良少年の中学へ入学してから、漠然と宗教にこがれていた。人の命令に服すことのできない生れつきの私は、自分に命令してそれに服するよろこびが強いのかも知れない。然し非常に漠然たるあこがれで、求道のきびしさにノスタルジイのようなものを感じていたのである。

 「風と光と二十の私と」と題された、自伝的な郷愁の色濃い作品の中に掲げられた一節である。「私」にとっての「宗教」は、外在的な桎梏から解き放たれる為の理想郷のようなものとして捉えられている。勿論、それが一過性の幻想に過ぎないことは明らかで、彼は結局のところ、宗教的な救済に自己の問題を解決する術を見出さなかった。それは彼が「世捨て」の欺瞞性に目覚めたからであり、作中で語られる代用教員時代の回想は、当時の彼が懐いていた「世捨て」への憧憬を遠く離れた場所から分析する眼差しによって綴られている。 

 こういう職業は、もし、たとえば少年達へのお説教というものを、自分自身の生き方として考えるなら、とても空虚で、つづけられるものではない。そのころは、然し私は自信をもっていたものだ。今はとてもこんな風に子供にお説教などはできない。あの頃の私はまったく自然というものの感触に溺れ、太陽の讃歌のようなものが常に魂から唄われ流れでていた。私は臆面もなく老成しきって、そういう老成の実際の空虚というものを、さとらずにいた。さとらずに、いられたのである。

 言い換えれば、彼が青年期の終わりに迎えた「悟達」とは、宗教的救済の「空虚」を了解することであった。問題は、なぜ彼が宗教的な「求道」への憧れを断念し、転回したのかという点に存する。

 私が教員をやめるときは、ずいぶん迷った。なぜ、やめなければならないのか。私は仏教を勉強して、坊主になろうと思ったのだが、それは「さとり」というものへのあこがれ、その求道のための厳しさに対する郷愁めくものへのあこがれであった。教員という生活に同じものが生かされぬ筈はない。私はそう思ったので、さとりへのあこがれなどというけれども、所詮名誉慾というものがあってのことで、私はそういう自分の卑しさを嘆いたものであった。私は一向希望に燃えていなかった。私のあこがれは「世を捨てる」という形態の上にあったので、そして内心は世を捨てることが不安であり、正しい希望を抛棄している自覚と不安、悔恨と絶望をすでに感じつづけていたのである。まだ足りない。何もかも、すべてを捨てよう。そうしたら、どうにかなるのではないか。私は気違いじみたヤケクソの気持で、捨てる、捨てる、捨てる、何でも構わず、ただひたすらに捨てることを急ごうとしている自分を見つめていた。自殺が生きたい手段の一つであると同様に、捨てるというヤケクソの志向が実は青春の跫音のひとつにすぎないことを、やっぱり感じつづけていた。私は少年時代から小説家になりたかったのだ。だがその才能がないと思いこんでいたので、そういう正しい希望へのてんからの諦めが、底に働いていたこともあったろう。

 何より重要なのは、このような幻想が自己欺瞞的であり、己自身の苦悩や未熟を隠蔽する為に採用された精神的な擬制であるということだ。世の中に受け容れられないという悲観的な認識が、そのような擬制を形成する土壌として作用する。社会の「命令」に従うことのできない根深い特性が、社会を自ら追放する、即ち「世を捨てる」ことへの欲望に転化するのである。その転化が、代用教員時代の「老成の実際の空虚」を齎したのだ。

 その「空虚」は、いわば人間的=世俗的な秩序を否認することから分泌されるものであり、それ自体が一つの「倫理」と言えなくもない。だが「私」の「悟達」は、そのような倫理を肯定するものではない。言い換えれば「老成の実際の空虚」によって支えられる倫理とは、仏教的な「道徳」でしかなく、世俗から弾き出された人間が縋る「化外の倫理」に他ならない。回想する「私」は、そうした「化外の倫理」を受け容れることの困難を認識している。「私」がそれに憧れ得たのは、若かった当時の彼の内部で「本当の肉体の生活が始まっていな」かったからに過ぎない。

 やっぱり戦争から帰ってきたばかりの若い詩人と特攻くずれの編輯者がいる。彼等は私の家へ二三日泊り、ガチャガチャ食事をつくってくれたり、そういう彼等には全く戦陣の影がある。まったく野戦の状態で、野放しにされた荒々しい野性が横溢しているのである。然し彼等の魂にはやはり驚くべき節度があって、つまり彼等はみんな高貴な女先生の面影を胸にだきしめているのだ。この連中も二十二だ。彼等には未だ本当の肉体の生活が始まっていない。彼等の精神が肉体自体に苦しめられる年齢の発育まできていないのだろう。この時期の青年は、四十五十の大人よりも、むしろ老成している。彼等の節度は自然のもので、大人達の節度のように強いて歪められ、つくりあげられたものではない。あらゆる人間がある期間はカンジダなのだと私は思う。それから堕ちるのだ。ところが、肉体の堕ちると共に、魂の純潔まで多くは失うのではないか。

 肉体が人間の内なる「自然」であり、多くの場合、人間の意識=精神の自在な統御から逸脱していく外在的な自律性の塊であることは今更、目新しい認識ではない。そして宗教的な「求道」の厳しさは、そのような外在的自律性の表象たる「肉体」を折伏していく努力の厳しさと同義である。それが何らかの「倫理」を形作ることは言うまでもない。内なる自然としての肉体を、意識的な統御の下に屈服させ、自己の存在を律することは、倫理的な努力以外の何物でもない。

 然し、注意すべきなのは、「私」がそれを懐かしみ、遠い日の記憶として綴っていることだ。往時の倫理的な存在の様式は、齢を重ねた現在の「私」にとっては、既に遠くに去った若き日の遺物なのである。それは加齢によって肉体の論理に敗北した「私」の、苦々しい懺悔ではない。寧ろ、肉体の論理が本格的に始まって「私」の精神を侵し始めない限り、倫理的な問題というのは起動しないのである。「老成の実際の空虚」を悟らずにいられた若き日の「私」の倫理性は、霊肉の相剋によって苦しめられていない。従って、それは倫理的でありながら、無力であり、空虚なのだ。

 私と自然との間から次第に距離が失われ、私の感官は自然の感触とその生命によって充たされている。私はそれに直接不安ではなかったが、やっぱり麦畑の丘や原始林の木暗い下を充ちたりて歩いているとき、ふと私に話かける私の姿を木の奥や木の繁みの上や丘の土肌の上に見るのであった。彼等は常に静かであった。言葉も冷静で、やわらかかった。彼等はいつも私にこう話しかける。君、不幸にならなければいけないぜ。うんと不幸に、ね。そして、苦しむのだ。不幸と苦しみが人間の魂のふるさとなのだから、と。

 だが私は何事によって苦しむべきか知らなかった。私には肉体の慾望も少なかった。苦しむとは、いったい、何が苦しむのだろう。私は不幸を空想した。貧乏、病気、失恋、野心の挫折、老衰、不和、反目、絶望。私は充ち足りているのだ。不幸を手探りしても、その影すらも捉えることはできない。叱責を怖れる悪童の心のせつなさも、私にとってはなつかしい現実であった。不幸とは何物であろうか。

 苦しむことが、なぜ人間にとって必要なのか。「老成の実際の空虚」をさとらずにいられることが、なぜ若さゆえの特権でしかないと定義されるのか。「自然の感触とその生命によって充たされている」私の実存が、なぜ「人間の魂のふるさと」即ち人間の本懐から切り離されてしまうのか。これらの記述を裏返すと、人間の倫理とは「自然の感触とその生命に」充たされないことであるという命題が導出される。

 あの喧燥な校庭に人影も物音もなくなるというのが妙に静寂をきわだててくれ、変に空虚で、自分というものがどこかへ無くなったような放心を感じる。私はそうして放心していると、柱時計の陰などから、ヤアと云って私が首をだすような幻想を感じた。ふと気がつくと、オイ、どうした、私の横に私が立っていて、私に話しかけたような気がするのである。私はその朦朧たる放心の状態が好きで、その代り、私は時々ふとそこに立っている私に話しかけられ、どやされることがあった。オイ、満足しすぎちゃいけないぜ、と私を睨むのだ。

「満足はいけないのか」

「ああ、いけない。苦しまなければならぬ。できるだけ自分を苦しめなければならぬ」

「なんのために?」

「それはただ苦しむこと自身がその解答を示すだろうさ。人間の尊さは自分を苦しめるところにあるのさ。満足は誰でも好むよ。けだものでもね」

 本当だろうかと私は思った。私はともかくたしかに満足には淫していた。私はまったく行雲流水にやや近くなって、怒ることも、喜ぶことも、悲しむことも、すくなくなり、二十のくせに、五十六十の諸先生方よりも、私の方が落付と老成と悟りをもっているようだった。私はなべて所有を欲しなかった。

 飛躍して言えば、これは宗教=仏教的な理念の否定である。一切皆苦を思わせる文言に惑わされてはならない。生老病死を根源的な苦痛と看做し、そこから脱却する為の方法を模索する仏教的な価値観を「私」は否認する。寧ろ、苦しみの中に留まれと教え諭している。「自然」との濃密な接触に喜悦を見出し、朦朧たる放心の状態を愛する心理的構造は、生存に内在する根源的な苦しみからの逃亡に他ならず、それは人間的な実存の本質を排斥し、棄却することに繋がる。「私」にとって、そのような棄却の企ては欺瞞的な幻想に過ぎず、「本当の肉体の生活」を黙殺するところにしか成立しない奇怪な擬制である。そのような擬制を食い破り、排除することに人間が求めるべき「倫理」がある。脱俗ではなく、俗情の渦中に留まることこそ、倫理的な実存の様式である。「私」が語っているのは、このような「倫理」の「転回」なのだ。「自然」との交歓と「世を捨てる」ことへの欲望は、異なる原理ではなく、或る一つの明確な衝動の側面である。つまり、それは「自然」の領域に「自己」の個体性を解消することであり、人間的な秩序から逸脱することであり、即ち「死」の領域に没入することだ。「私」の転回した「倫理」は、そのような「死」への度し難い欲望を中和し、死ぬことの安逸=涅槃の幸福を否定することを主眼としている。もっと言えば「自殺が生きたい手段の一つであると同様に」、そのようなタナトスさえも、捻じ曲がった生命保存の欲求であり意志であることを「私」は見凝めているのである。彼は、生きる為に自殺を選択するような精神の歪曲を反倫理的な行為として排斥し、許さなかった。なぜなら「人間の尊さは自分を苦しめるところにあるの」だ。

 内なる「私」が語る「幸福」とは、世俗的な快楽の達成を意味するというより、脱俗することによって得られる空虚な「満足」を指しているものと考えられる。それは涅槃=死の快楽であり、そうすることによって仮想的に確保される絶対的な「放心」の幸福である。だが、その「放心」に対する欲望は「正しい希望」=「野心」の挫折によって形成された反動的な性格を有している。