サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

小説を読むということについて / 存在しないものの回想

 どうもこんにちは、サラダ坊主です。

 茨城県や栃木県で大規模な水害が発生したのが嘘のように、千葉は晴れ渡っていい天気ですね。

 先日立て続けに「村上春樹論」と「坂口安吾論」という割とハードな内容のエントリーをアップしたので、今日はもうちょっと気軽な内容で書きたいと思います。

 テーマは「小説を読むということについて」です。

 世の中には星の数ほども小説があります。どんな読書家でもそのすべてを読みつくすことは出来ないでしょう。誰もがコツコツと洞窟を掘るように、自分の嗅覚やあるいは何らかの情報をきっかけに作品を選び、最初のページを開く訳です。

 最初のページを開いた瞬間から、そこには新しい「世界」が開かれます。「異界」と言い換えてもいいかもしれません。小説は、仮に現実を主題として、実際に起きた出来事に立脚していたとしても、必ず「異界」としての性格を備えています。そこに描かれている内容は様々です。ですが、その内容にかかわらず、小説の中の「世界」は現実の客観的な反映としては構築されていません。

 私の考えでは、小説というのは「存在しないものを思い出す」ということです。現実はあくまでも素材であり、その素材を独特の手順や様式に則って再構成したものが「小説」の空間です。現実の厳密な反映であっても、それは現実そのものではない、ということです。

 ですから、小説を読むということは「存在しないものの記憶」に触れるということであり、世界を広げるということと同義です。

 たとえば村上春樹の「ハンティング・ナイフ」は、明らかに現実の断片を素材として作られていますが、完成された作品の世界は現実そのものとは異質な「何か」です。坂口安吾の「風と光と二十の私と」はもっと露骨に、自伝的な素材を用いて綴られていますが、それを現実の単なる模写として受け取っては、「小説を読む」という経験にはなりません。それは現実を素材としながら、単なる現実以上の何かに、例えば「象徴」に高められた経験なのです。なぜならそれは必ず作者の「精神」によって濾過された時空だからです。

 私たちが小説を読む、あるいはページをめくる背後には様々な「理由」があると思います。それは個人によって色々ですが、共通して言えるのは「いま、ここ」ではない世界へ触れようとする衝動に支配されている、という点ではないかと思います。「存在しないものを思い出す」という定義も、そこから導き出されます。「いま、ここ」というのは「現在」ということです。人間の精神の特質は、意識の焦点を「現在」の外部へ引き離せるということ、もっと簡単に言えば「想像力を駆使できる」という点にあります。想像力というのは常に現実から出発して、「現在」の拘束を引きちぎることが出来る「能力」です。小説はその想像力の原理を利用して構築されます。

 「いま、ここ」ではない世界へ精神を羽撃かせるということ、いわば可能的な現実を想定し得るということ、それが人間の人間たる所以だと、私は思うのです。もっと言えば「可能性」という概念自体、実に人間的なものだと言えませんか? 存在しないものを認識する、それが可能性ということです。

 ですから、想像力を「現実逃避」の一言で一蹴するのは、はっきり言って賢明ではありません。それは人間という存在の「コア」に相当する力なのですから。現実逃避は、現実を認識するための不可欠のプロセスです。分かりにくい言い回しですね。現実逃避の反対は現実への適応であり、それは言い換えれば現実への「埋没」ということです。それが生きているということの本質だといえば、確かにその通りですが、現実に埋没するだけでは、人間の生存が「新しいもの」に手を触れることは不可能です。

 やっぱりとっ散らかった内容になってしまいました。

 こういったことは、継続的に考えていきたいと思っています。

 どうも、船橋サラダ坊主でした!