サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

書くことは「断層」から生まれる

 どうもサラダ坊主です。

 私は小学校ぐらいのときから文章を書くことが好きで、ちまちまと雑文を書き散らして参りました。ジャンルは様々で、シャーロック・ホームズ江戸川乱歩の「少年探偵団」を模倣した推理小説を試みたり、宇宙を舞台にした壮大なSF(実際にはA43ページくらいで大団円を迎えましたが)に挑戦したり、長じてからはエッセイ、短歌、自由詩、評論、戯曲(これも数ページで終わり)みたいなものにも手を染めました。今も残っているものは殆どありませんが、いずれにせよ「書くこと」が好きで、常に何かしら書くことを続けてきたことは事実です。これぐらい長く続いている取り組みは、私の人生においては他にありません。

 二十歳の頃、最初の結婚生活に着手したとき、私は大学を中退したフリーターで、社会人のイロハも分からぬまま世間の荒波に漕ぎ出でました。そのとき、前妻は妊娠しておりましたので、私は薄給で家族を養わねばならず、書くことで生計を立てたいという幼少期からのナンセンスな夢は捨て去り、とりあえず食うための仕事に邁進して、しっかり稼げる男になろうと決意しました。あれから、もう十年近い歳月が流れました。

 実際にはどうか? 結局、書くことは止められなかったのです。

 それは何故なのか、改めて思い返してみると、書くことの「衝迫」の根源にあるものの姿が漠然と見えてきます。一言で要約すれば、それは「断層」です。いったい何の断層なのかと言えば、それは「世界」と「私」との断層です。言い換えるなら「現実」と「主観」との断層です。

 「私」と「世界」との間に何の乖離もなく、それこそ動物が生得の本能に従って生きて老いて死ぬように、「現実」と「主観」がぴったりと重なり合った状態で「生存」が構築されていれば「内面」というものは形成されません。しかし実際には、人間は極度に膨張した「精神」という内なる自然を宿しており、絶えず「自己」と「世界」との背反に思い悩みながら生きているものです。初期の柄谷行人なども、執拗にこうした背反性の問題を思索していました。かつて「新世紀エヴァンゲリオン」も、このような「自己」の過剰な肥大を、或いは「世界」と対峙する「自己」の息苦しい閉域を描いていましたね。

 「世界」は「私」の意識とは無関係に、客観的=普遍的に存在します。その「世界」と「私」との間に「断層」が生じるのは、そもそも私たちの意識自体が「対=世界」的な構造を有しているからです。何かを認識することは常に、観察する主体と観察される客体との「分離」を伴います。意識を備え、それを絶えず働かせて活動する私たちの存在の内部に「主観的な領野」が作り出されるのは、構造的な必然なのです。

 「書くことへの欲望」は、そのような「世界」と「私」との「断層」を埋めようとする衝迫によって生み出される奇怪な執着です。単に意思疎通の必要性から、他者へ向かって発せられる信号としての「言葉」ではなく、「世界」と「私」との間に生じる疎隔を解消する為に発せられる「言葉」を欲し始めたとき、人は「書くことへの衝迫」に魂を呑み尽くされます。それは通常のコミュニケーションに対する社会的な欲望とは異質な、寧ろコミュニケーションの不可能な何かを表出する為のひどく孤独な営為であると言えます。

 自分の内側に存在する、訳の分からない不定型な何かを「眼に見えるもの」に変換する為に、人は「書く」という作業を必要とするのです。それは断層を解消しようとする衝迫ですが、「世界」と「私」との「断層」は理論上、決して解消されることがありません。だから、「書くことへの欲望」は基本的に已み難いものです。

 無論、そこまで根源的なレベルで「断層」を捉えずとも、単純に「私」と「社会」との疎隔感が原動力となって、書くことに走る場合もあるでしょう。その場合、「私」と「社会」との一般的な意味での「和解=適応」が、書くことへの欲望を終焉させます。書くことは常に「異物感の表明」です。あらゆる文学はそこから創成されます。

 何の結論もない文章でごめんなさい。サラダ坊主でした!