サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

究極の文民統制 有川浩「図書館戦争」

 どうもこんばんは、サラダ坊主です。

 今日は岡田准一榮倉奈々を主役に迎えた実写映画バージョンも有名な「図書館戦争」を取り上げます。原作は有川浩の小説で、現在は角川文庫に収められています。

 単行本は本屋さんで幾度も見かけていたのですが手に取らず、偶然船橋ららぽーとで実写映画を見たのがきっかけで、原作小説にも手を出しました。実に傑作です。

 実在する日本図書館協会の綱領「図書館の自由に関する宣言」から着想を得て書かれたという本作品は、文字通り「図書館の自由」を巡る図書隊と良化特務機関の抗争を描いています。この発想が非常に面白いなというか、その単純かつ素朴な思い付きをしっかりと小説という実作で具体化したところに、私は感銘を受けました。

 この作品はその設定上の必然から、様々な表現や思想、メディアの問題を取り扱いつつ、きちんとエンターテイメントとして成立している稀有な小説です。扱っている主題は結構議論百出するような類のものなのですが、その割に全然面倒くさい、説教くさい、観念的な作品に仕上がっていないのは、作者の手柄と称するべきでしょう。

 何より「図書館」と「戦争」という、或る意味では対極的な概念である二つの要素を巧みに結び付けて、波瀾万丈なストーリーに仕立ててあるのが魅力的です。図書隊のメンバーは、厳しい軍事的訓練を受けた戦闘のプロでありながら、図書館業務もこなせる「書物」のプロでもあるという二重性を有しています。いわば究極の「文武両道」であり、文民統制の理想的な形態であるとも言えます。

 彼らは書物を愛し、書物に刻み込まれた多種多様な「思想」の保護に全力を尽くします。メディアを検閲し、言論弾圧の片棒を担ぐ良化特務機関に抗して、過酷な戦闘に身を挺する彼らの姿はプリミティブな美しさを備えています。彼らは「思想・良心の自由」や「表現の自由」と呼ばれる、憲法に規定された自由権の「現実的な庇護者」なのです。言い換えれば、それらの自由権は鍛え抜かれた軍事のプロフェッショナルの弛まぬ努力によってしか本来保ち得ない、崇高で稀少な「権利」なのです。

 私たちは実に色々な「歴史的事実」を忘れがちです。「表現の自由」も「思想・良心の自由」も、憲法に規定された所与の「権利」であるかのように考えてしまいますが、それは本来「作り出されたもの」であり、不断の努力によって「勝ち取られたもの」なのであって、黙っていても転がり込んでくるような自明の何かではありません。「言論弾圧」など遠い昔の話だと素朴に思い込んで済ませているのです。しかし、例えば我が国では、共産主義者の弾圧を目的として制定された治安維持法がおよそ70年前まで運用されていました。現代でも、北朝鮮やシリア、イランなどでは情報統制や言論弾圧が横行していると言われています。それらの国々では「報道の自由」など存在しません。もしも「報道の自由」が確固たる輪郭を備えた「実体」であるならば、そんな強権的国家は地上に存在しない筈です。しかし実際には「思想」が弾圧され、抑制され、検閲されています。中国でも、人権運動家の情報にアクセスさせないためにネットの接続が制限されたりしていますね。これは「現代の事実」であって「中世の伝承」ではありません。自由は、常に政治的な理由から踏みにじられる危険を備えた、儚い「権利」なのです。

 何かを考え、何かを思い、何かを愛したり悲しんだり怒ったりすること、そうした「精神の自由」を阻害し、弾圧することは究極の人権侵害です。むろん、図書隊のような組織が活動しなければならない社会など不幸であるに決まっているのですが、一つの思考実験として、私たちは「図書館戦争」の世界で演じられている戦い、論じられている主題について意識の焦点をもっと向けるべきでしょう。「精神の自由」は誠に保全し難い曖昧なものですが、人間の幸福はそこから生まれてくるのであり、抑圧された不自由な「精神」を国民に強いる国家が今も当たり前のように存在しているという事実に、もっと恐怖と絶望を抱くべきです。

 「精神の自由」は「戦争」をするぐらいの覚悟で守り抜かなければならない崇高な価値であることを、私たちは肝に銘じるべきです。むろん、それは「戦争」を肯定するものではありません。折しも安保の改定が成立しましたが、例えば一つの重要な法案が可決するにあたって訳の分からぬ押問答が参議院で演じられ、不透明なプロセスのまま成立してしまうというこの国の現実は、真実を知り、学ぶ権利の剥奪であり、「思想・良心の自由」に対する明瞭な暴力です。集団的自衛権の賛否よりも、それが世論の反対を押し切って呆気なく無様に通過してしまうことへの賛否が、もっとクローズアップされねばなりません。知る権利、学ぶ権利、論じる権利、訴える権利、考える権利の抑圧は「精神の自由」を疲弊させ、衰弱させます。

 「社会の豊かさ」は「社会の多様性」によって担保されているのであり、 それは「検閲的な選別」と根本的に対決する思想です。そして「社会の多様性」はきれいごとでは成り立たず、様々な差別感情を織り込んで組み立てられます。全体主義的な思想の持ち主の眼には、そのような多様性は不快極まりない「紊乱」に見えるでしょう。全体主義は、多様性を重んじる思想の対極に位置します。全体の最適化を考えるなら、すべてのパーツは画一的な規格品である方が絶対に合理的ですから。そして多様性の思想に立脚するということは、そのような画一的規格品を偏愛する全体主義者の思想さえも「肯定」し、「包摂」するということなのです。

 そういった意味では、図書館戦争の登場人物たちのヒロイズムは随分と脇が甘いですね。エンターテイメントとしては充分に面白いのですが。

 以上、船橋サラダ坊主でした!