サラダ坊主日記

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自意識のもたらす笑いと狂気 町田康「くっすん大黒」

 どうもこんばんは、サラダ坊主です。

 本日は町田康の「くっすん大黒」について書きます。

 元々はパンクロッカーとして、後に破天荒な詩人として世に出た町田氏は、この「くっすん大黒」で1996年に小説家としての活動をスタートさせます。爾来、旺盛な執筆を続けている氏の作風は、口承文芸的な自由自在の語りを武器にしている点で、ずっと一貫していますが、例えば「告白」のような小説では割にシンプルな語法へ変化しています。

 その点、処女作である「くっすん大黒」には、小説家である以前に「ミュージシャン」であり「詩人」である作者の持ち前の個性が濃厚に現れていると言えます。素朴な意味での写実的なリアリズムに則った通り一遍の小説とは全くかけ離れた、とにかく「語り」のパワーを縦横に発揮してみせたこの作品には、「過剰な自意識」の問題が取り上げられています。

 縦横無尽に移動する焦点を備えた作者の独特な語り口は、その「過剰な自意識」の運動を克明に描き出す為には不可欠の文学的装置であると言えましょう。自意識とは、自分自身の存在へ言及する意識ということであり、自己言及を通じて「他者の視点」を把握するような閉塞的な精神の様態です。それがこんなにも滑稽な魅力を放つのは、「過剰な自意識」に潜む狂気さえも相対化し、客観視するような「強靭な自意識」が息衝いているからです。

 この作品には安定した「私」と安定した「世界」との写実的な関係性が存在しません。「私」の意識は客観的な世界との安定した繋がりを持たないゆえに、異様な放物線を描いて運動します。それが文体の「混線」と「錯綜」をもたらす訳ですが、そこから滲み出るユーモアは、そのような「自意識の混乱」を高みから俯瞰するようなもう一つの「自意識」が堅牢に機能しているからです。その限りで、作者の健康なユーモアは維持されます。

 しかし、この作品の後半では、描き出される世界が幾分「常軌を逸し過ぎている」ために、結果として「笑い」が凍りついているような印象を受けました。何というか、語りの自在性にのめり込む余り、語っている自分自身への言及が弱まり、ユーモアに欠かせない「対自的な視線」が消失してしまっているのです。

 過剰な自意識に固有の「暴走」が読者の口許を綻ばせる為には、「暴走」が「暴走」であることを明瞭に認識している語り手の「健全な主観性」が欠かせません。しかし作品の後半、狂気を孕んだ登場人物たちが暴走を始めるに連れて、その狂気を笑い飛ばす為に必要な「俯瞰的視野」が欠落を始めます。そのとき、世界はユーモラスな相貌を失い、狂気は単なる狂気として「意味の剥落」へと至ります。本当に無意味なものは、人間の精神を困惑させ、震撼させ、戦慄させます。

 言い換えれば、ユーモアは「意味」と「無意味」の断層に生じるものだということです。そこでは常に危うい均衡が保たれている必要があり、「意味」に傾けば無味乾燥で退屈な「理性」となり、「無意味」に傾けば純然たる「狂気」へと沈み込むことになります。言い換えれば、ユーモアという精神的運動は常に「意味」と「無意味」との絶え間ない往還を必要とするということです。

 しかし、それはこの作品を「コメディ」として矮小化する視点に立った場合に発せられる「批判」であって、作者の意図が「意味」から「無意味」へと変貌していく人間の奇怪な生態を描くことを主眼としているならば、寧ろ「往還の不全」は瑕疵ではなく目論見通りの成り行きということになります。ユーモアはもちろん大事ですが、書くことが常に「読者を笑わせること」である必要はありません。恐らく作者にとって重要なのは「私」と「世界」との断層を描くことであり、その断層を幾らかシリアスに書き過ぎると「笑えないほど不条理な世界」が現出するということではないかと推察します。

 このような「無力な私」と「堅牢な世界」との背反という主題は、後に「告白」で一つの絶対的達成を見せるに至る作者の主要なテーマだと思われます。その「断層」から絶えず眼を離さずに、偏執的なほどの拘泥を続けるところに町田氏の比類無い個性と才能が存しているのでしょう。短篇ですので、是非皆様も気軽に手に取って、ページを開いてみて下さい。横溢する町田氏の「文学的情熱」に圧倒されること請け合いです。もちろんその「文学的情熱」は少しも堅苦しいものではなく、いかにも尤もらしい口調で綴られた愚行の、いわば「形式」と「内容」との断層に、思わず頬が緩むに違いありません。

 そんなこんなで、船橋サラダ坊主でした! 

 

くっすん大黒 (文春文庫)

くっすん大黒 (文春文庫)