サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

映画におけるストイシズム / 「原作」という呪わしき理念

 どうもこんばんは、サラダ坊主です。

 ここ数年、私は劇場へ足を運んで映画を見ることが多くなりました。映画というのは本来「映画館」で鑑賞されることを想定して作られているので、テレビやDVDで見ると、今一つ物足りなく感じることがあります。何より、映画館という環境は作品の「世界」へ没入することをサポートする機能に特化しており、まさしく「目が離せない」という状態を醸成し易いように設計されています。だから、どうせ映画を見るなら映画館で見るべきだというのが、私の個人的な見解です。

 さて、映画というのは様々なジャンル、様々なシナリオに基づいて作られ、その個性は多岐に亘っている訳ですが、少なくとも各地のTOHOシネマズなんかで上映されている映画には、時間的な制限というものがかなり厳しく課せられているように思います。二時間、二時間半とか、一定の尺度の範囲内に作品世界を収めるのが、映画製作における絶対的な掟となっているかのようです。どういう商業的な理由があるのか、私は詳しくないので何とも言えないのですが、二時間であろうと三時間であろうと、映画という作品形式には、その時間的な制限が齎す「生理」というか「リズム」があります。

 この映画における時間的な制限がもたらすリズムは、必然的に映画という枠に収められるべき物語のリズムを規定します。物語はあまり単純過ぎてもいけないし、長過ぎてもいけません。同時にそれはビジュアル=オーディオな表現特性に相応しい物語でなければなりません。延々と独白や回想ばかり連ねては、映画の本領が発揮されないし、それを映画として構造化する意義が不明確になってしまいます。

 最近はマンガや小説を原作とした映画が目立ちます。無論、それは近年に限った話ではないのですが、映画の完成度や魅力が常に「原作」とのメディア的変換の落差と絡めて論じられる傾向があるのは、映画というジャンルのダイナミズムを象徴する一方で、「映画」の固有性とは何かという根源的な問いを同時に喚起せずにはおかないものです。「進撃の巨人」が失敗で「バクマン」が成功だ、などという議論が、原作との落差という観点に偏って行われる議論の所産であるとすれば、映画を巡る様々なコミュニケーションの現場は「貧しい」と言わざるを得ません。

 ただし、このメディア的変換における「落差」の良し悪しという問題は、その変換に関わる表現形式の「固有性」をパララックス的に見出すには都合のいい手法であるとも言えましょう。或る物語が「小説」として優れていながら「映画」としては優れていないという場合、そこには作り手の技倆の良し悪しを超越した、もっと構造的な次元の問題が関わっているのではないかと、私は考えます。

 個人的な喜びとして小説を書いている者として、映画という表現手法から影響されざるを得ない部分として言えることは、映画が常に「フレーム」という制限から出発しているということです。それがどのようなシーンであれ、どのようなカットであれ、それはいずれにせよ「或る角度」「或る視点」から語られた「映像」であり「世界」です。小説でもよく「視点の不統一」が問題視されることがありますが、私の考えではそれは「映画」に代表されるビジュアルな表現様式の特性からもたらされた影響であり、教訓ではないかと思います。なぜなら小説において「視点の不統一」が批判されるのは、そもそも「視点」というものの絶対性が稀薄だからなのです。「映画」における「視点」と、「小説」における視点を関連させるのは性急な議論です。

 本質的に「映画」はカットの連続で成立しており、限られた時間の中で言葉に頼らず映像の力で観衆の心身に訴求せねばなりません。言い換えれば「映画」は極めて「寡黙」なメディアなのです。従ってそれは「小説」のように極めて「饒舌」なメディアとは根本的に異質であり、両者の架橋は決して容易ではありません。「小説」は幾らでも「長く」書けますが、鑑賞に十時間とか二十時間とかの長さを要する「映画」は「映画」の本領から逸脱しています。小説では幾らでも言葉を増殖させ、陥入させることが可能ですが、映画は或る限られた視点から見られた「世界」の断片であることから逃れられません。映画がビジュアルな力だけに頼って或る「抽象性」を成立させるのは大変な難事です。

 同時にそれは、ビジュアルな力が、饒舌な言葉の煩雑な表現力と具体性に欠けた解像度を一撃で粉砕し得る可能性を孕んでいることも意味しています。100万字の文学的表現を、優れた映像的表現は僅か数秒で克明に炙り出してしまいます。情報量という点で、言語の解像度は映像の解像度には遠く及びません。そのとき、「寡黙」は「饒舌」よりも雄弁なのです。優れた「映画」は語らないことによって、何事かを鮮烈に告示します。その瞬間の衝撃力に憧れて、私は映画館へ足を運ぶのです。

 この辺で今日はおしまい。

 サラダ坊主でした!