サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「洗練」という名の停滞

 どうもこんばんは、船橋在住のサラダ坊主です。

 今夜も何の結論もないことを徒然と書き綴ります。

 

 どんな領域にも共通して言えることですが、或る新しい分野が誰かの独創的な努力によって開拓されたとき、そこには無限の可能性が広がっていると同時に、無限の「無法性」も存在しています。この「無法性」という単語は今、この記事を書くにあたって適当に拵えた造語ですが、これは一般的に用いられる「違法性」という概念とは異なります。「違法性」というのは「ルール」の存在を前提として、そこからの「逸脱」を意味する観念ですが、「無法性」というのは「ルール」そのものの不在を意味しています。

 新しく開拓された領域とは常に従来の社会的秩序からの「逸脱」そのものであり、従ってそこには既存の「法典」の拘束力がうまく浸透しません。あらゆる「法律」は既に存在するものを対象として形成されるのが普通ですから(存在しない犯罪、現実に起こっていない犯罪を取り締まる為に法律を定めることは出来ないですよね?)、新しい領域が開拓されたときの本質的な「無軌道さ」というのは、まさしく「無法」の状態なのです。

 この「無法性」という観念は「無限の可能性」というオプティミズム的なヴィジョンと表裏一体を成しています。当然のことながら、真新しく開拓されたばかりの領域には詳細な地図もありませんし、いかなる限界が存在するかということも事前に解明することが出来ません。何が可能で、何が不可能なのか、それを実際的な行動を通じて確かめる以外に方法はないという状態が、「真新しい領域」の定義であり、無法性という観念もそうした条件から導き出されます。言い換えれば、「無限の可能性」という観念は、「どんなことでも成し遂げ得る」という意味で解釈してはならないのです。それは「どんなことなら成し遂げ得るのか、未だ確かめられていないので精確な判定が出来ない」という状況を指す言葉として受け容れるべきです。

 このような無法性の世界には、様々な才能が集まり、具体的な行動を通じて、そのジャンルにおける「可能性」を一つずつ実地に模索していくことになります。例えば、江戸時代までの日本における「戯作」の文化と、明治時代以降に西欧の影響の下に形成されていった「近代文学」の系譜との間には、著しい断絶があります。私は市井の会社員に過ぎないので難しいことは専門家の方々の御高説に譲りたいと思いますが、例えば滝沢馬琴十返舎一九の目には、太宰治の「人間失格」のような小説は極めて「異質な何か」として映じるでしょう。もっと遡れば、紫式部の「源氏物語」と谷崎潤一郎の「細雪」との間には、単なる時代背景の差異に留まらない「構造的な断絶」がある筈です。その断絶はまさしく、全く新しい「ジャンル」が勃興したことの証左であると言えます。或いは音楽の場合、モーツァルトの歌曲とビートルズのロック・ミュージックとの間には千里の径庭があります。何れの場合も、それらの巨大な「断絶」は既存の様々な規則を踏み躙り、プリミティブな「無法性」を恢復したことによって発生しています。

 しかし、例えば登場当時はスキャンダラスな印象で迎えられたビートルズも、今では崇敬されるべき偉大な「古典」の地位を不動のものとしています。それが形成された当初の衝撃は徐々に、しかし着実に緩和され、稀釈されていき、社会的な価値観のメインストリームに埋め込まれていきます。そしてビートルズの甚大な影響の下に続々と新たな挑戦者たちが現れ、ロック・ミュージックの可能性を極限まで推し進めていきます。その過程においても度々、偉大な「発明」が出現し、その「一時的な無法性」のエネルギーによってジャンルは更新され、秩序が組み替えられ、結果として全体が生き延びることになるのです。それを人は「洗練」と呼びます。しかし「洗練」という完成度の高まりは言い換えれば、そのジャンルの可能性の「停滞」に他ならないのです。

 人が無法性の領域で「新しい何か」を成し遂げる度に、残された可能性の領分は少しずつ目減りしていきます。長い年月を経るに連れて様々な試みが積み重ねられ、可能/不可能の「判例」が人々の間で共有されていくのに伴い、そのジャンルの「無限の可能性」の腑分けは終幕に近づいていくのです。無論、何が可能で何が不可能かという厳密な「仕分け」の成果を踏み台として、次なる何かを作り出すのは、実に合理的な振舞いです。どんな企業でも「前例」や「過去のデータ」を全く振り返らずに企画を立てることはないでしょう。この歴史的な「前例」の集積が、私たちにとって「財産」であると同時に「足枷」でもあることに、注意を払わねばなりません。

 「完成度」を上げていくこと、それは何らかの営為が継続していく上では絶えず重要な問題ですが、或る事象に固執して、その「改善」に総てのエネルギーを費やすのは「衰退」の重大な徴候であると言えます。「前例」が増えれば増えるほど、「新しい何か」を創造することは難しくなり、私たちの主務は「従来の何かを洗練させる」こと以外に何もなくなってしまいます。ですが、「創造」の爆発的な威力と「洗練」の地道な効果を比べれば、どちらがより「建設的」であるかは一目瞭然です。

 とはいえ、往々にして「創造」というのは天才的な人間だけに許された特権であり、凡百のその他大勢は精々「地道な洗練」に日月を費やすのが良識的であるとも言えましょう。ただ、誰かが「新しい何か」を切り拓かない限り、私たちの世界と社会が停滞の泥沼へ落ち込むことは確実です。「他力本願」過ぎますかね? しかし、他人の発明品の有効な「使い方」を講じるのも、それらを再利用して別の目的に役立てるのも、部分的には立派なクリエーションですから、肩を落とす必要も、批判に膝を屈する必要もないのです。

 今夜も結論はありません。船橋から、サラダ坊主がお届けしました!