サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

サラダ坊主風土記 「長野」(善光寺・小布施・湯田中) 其の一

 どうもこんばんは、サラダ坊主です。

 今回はちょっと趣向を変えまして、紀行文めいた雑文を草して、ネットの大海へ晒してみたいと思います。

 今年の夏の終わりに私は妻と長野県へ旅行にいきました。私にとって「長野県」というのはかつて足を踏み入れたことのない未踏の地であり、旅先に選ぶにはうってつけの場所でした。その長野県への旅行を通じて感じたことや発見したことなどを、徒然と書き綴りたいと思います。

 東京駅から新幹線に乗って辿り着いた長野駅。春先に北陸新幹線「かがやき」で行った金沢よりも近いので、何となくあっという間に到着したような印象でした。ホームに降り立って、まずは東口の栄えていない方へ出て、デッキの上からあたりの景色を眺めてみたのですが、その静けさにびっくりしました。曲がりなりにも新幹線の停車駅だというのに、駅前のロータリーや立派な車道を眺めても、車がほとんど走っていません。

 反対側の善光寺口はさすがに栄えていたのですが、県の中心部であり、新幹線の停車駅でもある長野駅周辺がこんなに静かでは、いわゆる「地方の疲弊」ということも単なるスローガンではないのかもしれないと思いました。何だか偉そうに聞こえるかもしれませんが、私自身、千葉の片隅に暮らす田舎者なので、決してそれを馬鹿にする積りはないのですが、こうやって旅行へ行く度に思うのは、やはり「東京」というのは特殊な(異常な?)土地なんだなということです。

 JRの路線であっても、例えば草津へ行くときに高崎駅から乗った吾妻線の車両などはドアの開閉が手動で、車両の連結数も実に少なく、車体も老朽化していて、運行本数も非常に少なかったのを記憶しています。辿り着いた長野原草津口の駅舎も、東京ではまず見られないような簡素な造りで、東京駅や新宿駅みたいに年中莫大な費用を注ぎ込んで改築をするというのは、若しかすると異常な感覚であり、この国では少数派の考え方なのかもしれないと思いました。もちろん近年は耐震強度の問題なども駅舎に限らず高速道路や校舎など様々な場面で議論を呼んでいますから、何らかの改修工事を実施するのは必要な措置なのでしょうが、東京駅のような光景を現代日本の典型的な「風景」として受け止めるのは、恐らくは視野を狭くすることになると思います。

 小布施へ向かう為に乗り込んだ長野電鉄の特急列車は、中古品の小田急ロマンスカー成田エクスプレスの旧式車両で運行されていました。これも新鮮な経験で、鉄道事業者や路線の垣根を飛び越えて、中古車が取引されているという現実は、普段の暮らしの中では考えたこともありませんでした。日本の中古車が発展途上国などで新車のように珍重されているという話を聞いたことがあります。それと似たようなことが、同じ日本国内でも起きていることを考えると、普段漠然と信じ込んでいる「日本」の単一的な、総合的なイメージが本当は何の根拠もない局地的な「信仰」に過ぎないことがよく分かります。こういう感覚を味わえるのは、やはり旅行ならではの醍醐味です。

 日本は、中国やロシアやアメリカに比べれば国土面積は狭く、人口も少なく、狭小な島国ですが、それでも私たち人間のサイズを踏まえて考えれば充分に広大です。私は今、千葉県船橋市に在住していますが、地球の規模から考えれば実にちっぽけな船橋市の全域でさえ、私という一個の人間にとっては探索し尽くすことの困難な「迷宮」なのです。そう考えると、日本という単一の国家の内部であっても、地方によって物事の規模や基準や、或いは住んでいる人の思想や感覚が異なるのは自明のことで、寧ろ何となく日本全国どこでも同じような顔の人が同じような家に住んで、同じような暮らしを営んでいると素朴に信じ込む方がナンセンスなのです。

 しかし、たとえナンセンスであっても、同じような日常の反復に埋もれて暮らしていると、私たちはなかなか「異郷」の風景を生々しい実感を伴って思い浮かべることが出来ず、知らぬ間に眼前の「風景」に脳内を呪縛されてしまうものです。そういった意味で、たとえ定番の観光旅行であっても知らない土地へ実際に足を運ぶというのは、明確な「覚醒効果」を齎します。

 考えてみれば、鉄道の車両、しかもそれなりに性能のいいものを設計して作ってもらうのは、しかもそれを自社の為の専用のオーダーでやってもらうのには、恐ろしいほど巨額の費用が要るに決まっています。千葉と都心を結ぶ総武線快速のように、毎日凄まじい人数の旅客が利用する路線ならばともかく、一日の運行本数が少なく、乗客の運輸効率も決して良くはないであろう路線に、特注の車両を配備するというのは、地方の小さな鉄道会社にとっては数十年に一度しか踏み切れない大博打でしょう。投じた資金を回収するのにだって膨大な歳月を閲することになるでしょうし、そう考えれば型落ちの中古車両を同業他社から割安で買い取るという選択は一番合理的な判断であると言えます。

 けれど日々、当たり前のように総武線の快速列車に乗っていると、古びた車両は最新鋭の設備に更新されていくのが常識であるような錯覚に、素朴に囚えられてしまいます。そういう漠然とした、厳密な検討を経た訳でもない単純な「思い込み」を打ち破るのに、たとえ大した距離でもない国内旅行であっても、お決まりの観光地を巡る旅路であっても、旅行というのは積極的な効能を示すと私は思います。

 ローカルな地方鉄道に乗って、私と妻は先ず信州小布施に辿り着きました。栗菓子で知られる小布施の駅舎も年月の堆積を感じさせる古びた外観で、乗客の数は疎らで、辺は長閑な静寂に覆われていました。そういう静寂に包まれるとき、私は例えば船橋駅のあの異常な雑踏に紛れるときとは全く異質な時間の流れ方を経験します。同じ日本であっても、土地によって流れる時間の「質」というのは異なります。そういう「異質な時間」に触れると、私は何故か嬉しくなります。

 そういう感覚は、例えば長野駅善光寺口界隈のいかにも都会的な賑かさに包まれているときには絶対に味わえないものです。残念ながら、大きなターミナルの周辺の風景というのは、日本の中で最も「均質化されやすい領域」です。スターバックスマクドナルドやセブンイレブンが視界を掠めるとき、私の精神は凡庸な日常的現実へ強制的に連れ戻されてしまいます。見慣れた店舗が見慣れたとおりに営業しているというのは、確かに「利便性」という観点から見れば有難い話なのですが、それは旅行が齎すはずの「異質性」の認識を稀釈し、衰弱させてしまいます。それでは遠い土地へ、見知らぬ土地へ足を運んだ意味がない、というのは無論気楽な旅行者の勝手な言い分ですが。

 という訳で、続きはまた次回。船橋サラダ坊主でした!