サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「常世」と「現世」のはざまで生きること 川上弘美「真鶴」

 どうもこんにちは、サラダ坊主です。

 今日は川上弘美の傑作小説「真鶴」について書きます。

 川上さんは、実に独特のポジションに立っている作家だと思います。

 その文章は一見すると穏やかで柔らかくて儚げで、圭角のない読み心地ですが、その淡々と綴られる柔和な字面、文体から、生温い日常的リアリズムの小説だと一方的にラベルを貼り付けてしまうのは愚かな判断だと言えます。彼女の小説はいつでも、底知れぬ不吉な悪意のようなものを含んでいます。果たしてそれが悪意なのかどうかも見極められないほどに微弱な、静電気のように瞬間的にしか姿を現すことのない、秘められた「悪意」が、その文体には常時浸透しているように感じられるのです。

 この「真鶴」という小説は、夫に失踪されてしまった「わたし」の揺らぎと恢復を描いた小説なのですが、全篇を通じて絶えず不穏な空気が漂っており、どこまでが現実でどこまでが幻想なのか、その境目が見極められなくなる場面も少なくありません。この「どこまでが現実で、どこまでが幻想なのか分からない」という感触は言い換えれば、「異界の侵入」であると思います。私たちの暮らす平々凡々たる日常生活の裂け目から、こぼれた重油のように忍び込んでくる「異界」の気配が、この淡々とした文章で綴られる「真鶴」という作品を覆っている「不穏な手触り」の原因でしょう。

 恐らく、愛していた夫が何ら明確な理由も前兆もなく(作中には夫の浮気現場を目撃したと思しき記述が混じり込んでいますが、精神の均衡を失いつつある「わたし」の主観的な語りで構成された作品であるため、どこまでが客観的な事実として定義されているのか、よく分からない部分があります)、不意に自分の眼前から、或いは世界から消滅してしまったという「外傷」が、異界への扉を押し開ける引鉄となったのだと、私は考えています。それによって「常世」と「現世」の境界線がうまく保てなくなり、自我が曖昧に崩れ、解体していくギリギリの過程を描いているのだと思います。

 この小説の全篇に漲る、そこはかとない「不穏な手触り」「不吉な印象」は多分、その根底に漏出しつつある「異界」の匂いであり、「常世」の気配だと言えるでしょう。最終的に「わたし」は平穏無事な日常へ紆余曲折を経て帰還する訳ですが、その帰還は明快なドラマツルギーに基づいて描かれてはいません。その「ドラマツルギーの不明確さ」というのは、川上さんの多くの作品に共通して見出される文学的な特徴ではないかと思います。

 そのドラマツルギーの不明確さというか、輪郭の曖昧さは、異界の侵入によって明瞭な現実感を失っていく「わたし」の危険な動揺を表現するのに、適切な効果を上げています。なんというか、「常世」と「現世」の境界線の解体という或る特異な現象を、客観的な対象物として漏れなく描くというクールな叙述の方法ではない分、読んでいる側としても、その奇怪な「状況」に巻き込まれて、呑み込まれていくようなリアリティを感じるのです。文章自体は実に淡々と落ち着いて綴られていますが、語り手が投じられた「世界」というか「境涯」は実に重苦しく危険な領域です。一歩間違えば二度と元の「現実」には戻れないのではないかという危うさが、文章そのものにインクのように染み込んでいるのです。

 だから読み終わった後も、問題が解決したのか、物語に決着がついたのか、よく分からないにもかかわらず、読者は文章の「トーン」や「匂い」の変化そのものから、「わたし」が「現世」へ無事に回帰したことを悟ります。「夫の失踪」という重大で主観的な謎は、過ぎ去った客観的な事実へと塗り替えられ、その定義を変更されます。つまり、事実そのものは何も変化していないにもかかわらず、その事実に付与されていた「意味」だけが新しく置き換わるのです。その微細な「書き換え」へ到達するために、あれだけの長い時間と労力と苦闘が要求されるのです。

 それは多くの人々にとって馴染み深い経験であると言えるでしょう。誰もが或る悲劇的な体験に見舞われたとき、その圧倒的な現実の「重量」によって、動かし難い「記憶」を刻印されてしまいます。その「記憶」の動かし難さを、別の「意味」によって「読み替える」ことに成功したとき、精神的な「外傷」は漸く快方へ向かい始めます。そういった意味で「真鶴」を読むという経験は、「記憶」と「恢復」のプロセスを経験するということに他ならないのです。

 ぜひ皆さん、一度手に取ってご覧になって見てください。川上弘美という作家の「凄み」が生々しい実感として味わえると思います。それでは、サラダ坊主でした!

 

真鶴 (文春文庫)

真鶴 (文春文庫)