サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

幽閉された「悪意」の増殖 映画「ソロモンの偽証」

 どうもこんばんは、サラダ坊主です。

 本日は、これも若干旧聞に属する作品ですが、映画「ソロモンの偽証」について思うところを述べたいと思います。

 この作品は宮部みゆきの小説を原作としており、劇場用実写映画は「前篇・事件」と「後篇・裁判」の二部作として上映されました。私はこの作品を船橋ららぽーとで見ました。丁度「後篇・裁判」の上映時期で、とりあえず宮部みゆきの小説を原作にしているという程度の予備知識しか持たないままチケットを買って、「前篇・事件」を鑑賞したのですが、その余りの迫力と面白さに圧倒されて、そのままレイトショーの「後篇・裁判」のチケットを買い求めるという結果と相成りました。それぐらい「前篇・事件」の「何が真実なのか分からない」面白さは息づまるような強度に満ちていたのです。

 冒頭、回想へ入るまでのシーンが少し緩慢なリズムで退屈しかけたのですが、降り積もった雪の下に埋もれた柏木君の遺体、その黒眼がちな死に顔が映し出されたあたりから一気に物語が駆動し始め、俄然面白くなりました。そこから、様々な登場人物の思惑が入り乱れて「偽証」に至るまでの一連の流れは、本当に息つく間もないといった感じで、尚且つ一つ一つのシーンに滲み出る人間の「悪意」の不快な手触りが、ずっとこちらの感情を騒めかせて片時も落ち着かせてくれません。前篇の終幕のタイミングもこれ以上ないくらい絶妙で衝撃的で、誰もが薄らと「狂気」を含んでいるような感覚は、総てが現代の日本を舞台にしたリアリズムで描かれているせいで一層、不気味に映りました。

 ところが「後篇・裁判」になると、前篇の持っていた強烈な加速度は一気に失速を始め、二転三転した挙句に明かされた「真実」が割合に平凡というか、「誰の責任でもない。誰の罪でもない」結論であったために、肩透かしを食らった気分になりました。恐らくその一番の要因は死亡した「柏木君」の悪魔的なキャラクターに関する描写の薄弱さであろうと思います。彼のキャラクターの背景や、その独特な哲学の奥行きのようなものが具体的な挿話によって肉付けされていないために、彼の選んだ最終的な決断の意味や、彼が神原君に語って聞かせる悪魔的な「価値観」の抗い難さが明確に浮かび上がらず、結果として総てが「痛ましい厨二病患者の茶番」のようなスケールに矮小化されて見えてしまうのが、後篇の迫力=魅力不足を招いた最大の難点でしょう。

 私は原作の小説を読んでいないので、この「ソロモンの偽証」という作品が本来どのような意図の下に産み落とされたものなのか審らかにしないのですが、映画版を見ている限り、この作品の肝は「人間的悪意の恐ろしさ」にあると感じました。どうにも在り来たりの退屈な要約で申し訳ないのですが、あちこちに孤立して漂い、浮遊している様々な生い立ちの「悪意」が連鎖的に重なり合い、化学反応を起こすことによって招来される「不幸」が、この物語の根源的なメッセージであると感じたのです。

 三宅さんの悪意、大出君の悪意、柏木君の悪意、それらは固有の経緯に基づいて徐々に培われ、肥大していったものです。それが些細なことを契機として結びつくことで、人が死ぬこともあるという認識は、奇妙に「現代的な印象」を与えます。無論、それが「現代に固有の病」であると断言するのは拙速でしょうが、この「些細な悪意が縒り合されることによって起こる悲劇的な不幸」という主題は、宮部氏にとって重要なテーマなのではないでしょうか。

 この悪意は、特別な憎悪に満たされた者だけが持ち得る劇しい「殺意」ではありません。それは分かり易い単線的な「復讐」の物語とは根底的に異質なのです。大出君が三宅さんをいじめる「悪意」も、三宅さんの「偽証」に籠められた悪意も、それ自体は負の連鎖が齎した些細な「憎しみ」に過ぎないのです。重要なのは、そういう実に「些細な悪意」も、例えば「学校」のような閉鎖された環境においては時に「決定的な破局」を惹起しかねないという認識が、この作品の通奏低音であるように感じられます。それは客観的で冷静な第三者の眼から見れば「つまらない諍い」でしかありません。劇しい憎しみと呼ぶには、それは余りに小さな啀み合いから始まっています。けれど、その「つまらない諍い」をどうしても許せなくなってしまう人間の「異様な不寛容さ」という現象は、テレビやネットや新聞の報道を漫然と眺めているだけでも、紛れもない現実の「事件」として、私たちの耳目に日常的に触れてきています。

 或る閉鎖された環境において異常な増殖を遂げる「悪意」の典型を、私たちは学校における「イジメ」や家庭内で行われる「DV」「児童虐待」などの事例に見出すことが出来ます。何れの場合も、加害者は自分の行為の「残虐性」に対して正常な感覚を麻痺させていることが多く、被害者の側でも自分が受けている仕打ちの「残虐性」を冷静に認識出来ていないことが多いようです。その「感覚の異常」は恐らく、彼らの意識が「閉鎖された内部」「或る親密な閉域」に呑み込まれており、その閉域の「外部」に対する認識力や想像力を欠落させていることに由来しているのだと、私は考えます。

 この異常な「内閉性」(いま私が適当に拵えた造語です。あしからず)は、私たちの日常にとっても縁遠い「病気」などではありません。私たちの「世界」に対する認識力は知らぬ間に様々な「独断と偏見」によって狭められ、拘束されているのが常です。外部の世界を想像し得るだけの「思考力」や「理解力」を持たないまま、眼前の限られた現実世界に「異常な適合」を遂げようとする精神の様態は、イジメや虐待の報道を徴する限り、現代の日本人にとっては最早「国民病」にも等しい「病態」なのではないでしょうか。

 フランスの哲学者デカルトは「方法序説」という本の中で次のように述べています。

  つまり、われわれにはきわめて突飛でこっけいに見えても、それでもほかの国々のおおぜいの人に共通に受け入れられ是認されている多くのことがあるのを見て、ただ前例と習慣だけで納得してきたことを、あまり堅く信じてはいけないと学んだことだ。

方法序説」(岩波文庫版・谷川多佳子訳から引用) 

 こうした「前例と習慣」の強固な拘束力から逃れることは容易ではありません。特に同調圧力が大きく、付和雷同の慣習が根強いと言われる私たちの国では、このような「前例と習慣」の支配力を高める「内閉性の思想」は最も警戒すべき対象であると言えるかも知れません。実際、イジメを受けて自殺に至る子供たちは、自分の窮状を親にも学校の教師にも告げられず、ただ「遺書」の中にだけ「悲痛な思い」を閉じこめて死んでいく場合が多く、その「内閉性の監獄」の息づまる苦しみは想像を絶します。第三者は「なぜ助けを求めなかったのだろう」と訝りますが、渦中の当事者たちは「自分に救いの手を差し伸べてくれる外部=世界」が存在することすら信じられずに、重大な結論へ達してしまっているのです。デカルトは「世界」について語りました。しかし私たちは「世界」に対する度し難い無知のために、些細な「悪意」を増殖させ、悲劇的なクライシスを何度も巻き起こしてしまっているのです。

 脱線したまま戻ってこないような文章になってしまいました。以上、船橋からサラダ坊主がお届けしました!