サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「文弱」という病 三島由紀夫とともに

 どうもこんばんは、サラダ坊主です。

 本日は三島由紀夫について書きたいと思います。

 以前、三島の数多い代表作の一つ「金閣寺」について下記のエントリーを書いたのですが、苦労した割に出来栄えが今一つで、どうにも不完全燃焼な気持ちが消えないので、補足という訳ではないですが、改めて三島由紀夫という稀有な人物について思うところを綴っておこうと思い立った次第です。

 この「金閣寺」という小説は実に手強い作品で、語り手である「私」を筆頭に登場する人物の「癖の強さ」は並外れています。文章自体は流麗且つ明晰で、いかにも修飾過多な表現も散見するとはいえ、決して読み辛いものではありません。しかし、その文章に含有された独特の「思想」や「感情」をリアルな実感として咀嚼するのは生易しい作業ではありません。

 私は三島由紀夫の「小説」の誠実な読者ではなく、あの有名な「豊饒の海」も第一巻「春の雪」の中途で投げ出してしまいましたし、評価の高い「午後の曳航」も、その持って回った思わせぶりで大仰な書き方に倦怠を感じて読むのを止めてしまいました。作者の才能が尋常ならざるものであることは充分に伝わってくるのですが、その氾濫する文学的才能が「小説」として結実するとき、どうも収まりが悪いというか、描かれるべき「物語」とそれを実際に語る「文章」との連関の悪さが気になって、読む意欲を削がれてしまうのです。無論、細部を見ていけば実に端正な描写や巧みな修辞がたっぷりと含まれているのですが、それは小説に相応しい雑駁で有機的な「散文」であるとは言い難いと思います。小説の文章として読むには余りに理屈っぽく、様式的過ぎるように感じられてしまうのです。

 しかし、三島の批評的な随筆の類を読むと、その文章の素晴らしい「達意」ぶりに感嘆させられます。振り返れば十代後半の頃、ちくま文庫に収録されている批評的アンソロジー「三島由紀夫フランス文学講座」をどれだけ熱心に読み耽ったことか。理屈の積み上げ方や引用の仕方、何もかもが怜悧で洒落ていて、知性の閃きのようなものが随所に見出せます。恐らく彼の文学的才能は「小説」というジャンルには必ずしも最適な性質のものではなかったのではないかと、私は思います。文学に限らず、様々な芸術や思想の本質を的確に剔抉する手腕の確かさと眼力の鋭さは、彼の文学的な威信を極めて力強く浮揚する礎となっているのです。

 暴論を承知の上で言えば、このような批評的才能の鋭さと、過度に様式的な表現との乖離には、三島由紀夫という作家の「分裂」が集約されています。彼は非常に理屈っぽく底意地の悪い「批評家の相貌」とともに、華やかな舞台芸術に憧れる「ロマンティストの横顔」も併せ持っています。恐らく三島氏の才能は本来、小説という領域に軸足を据えるべき種別のものではなく、もっと「英雄的な分野」への憧れに貫かれた「何か」だったのでしょう。それは氏が自衛隊市ヶ谷駐屯地で衝撃的な割腹自殺を遂げたことや「葉隠」の愛読者であったことなどにも表れています。彼はきっと「他者から眺められたい」人だったのであり、その異常に肥大した自己顕示欲は、小説という「物語の自意識」(©柄谷行人)であることを本質的に定められた領野では満足することが出来なかったのではないかと思います。

 彼が「英雄的な死」に憧れていたことは、遺された文章や記録などから明瞭に察することが出来ます。「憂国」という作品に結晶したような「壮烈な死への憧れ」や、「金閣寺」にも記されている「滅亡への欲望」は、彼が常に終末論的な幻想に囚われていたことの証左と言えるでしょう。「壮烈な死」「悲劇的な最期」「絶対的な滅亡」を望むとき、恐らく彼は持ち前の冷徹極まりない強靭な「理知」から解放されることを欲していたのではないでしょうか。一見すると安手の芝居のようでもある割腹自殺も、図抜けた「頭の良さ」の反動ではないかと疑いたくなります。勘違いして欲しくないのは、それが「天才と狂人は紙一重」というような意味ではないということです。彼は過度に良識的な人物であり、敢えて挑発的な見解を述べるときも、自己批判を怠るようなタイプではなかった筈です。言い換えれば、彼の優れた眼力は余りにも「世界の実相」を明瞭に捉え過ぎていたのであり、その過剰な「解像度」が却って「世界の崩壊」を求める奇怪な欲望を養う結果となったのではないでしょうか。

 「眼高手低」という言葉がありますが、余りに賢くて物事の道理が「見え過ぎてしまう」人にとって、現実的=具体的な行動というのは概ね「無駄」であったり「愚昧」であったり「盲目」であったりします。実地に確かめる前から、抜群の抽象的思考力によって現象の行く末を見通してしまうからです。無論、実際に三島氏が森羅万象を知悉していたとは思いませんが、少なくとも過度に頭の良い人間にとっては、「現実」と「理知」との優先順位が奇妙な歪み方を示すのは奇異な話ではありません。言うまでもなく「理知」というのは「言語」によって構成されており、三島氏の卓越した文学的才能が「理知」への過剰な傾倒によって齎されたものであったのだとしたら、例えばいかにも様式的な「物語」を書くことは、そのような「理知の監獄」を破壊するための積極的な抵抗だったのではないかとも考えられます。

 このごろ私は、どうしても小説という客観的芸術ジャンルでは表現しにくいもののもろもろの堆積を、自分のうちに感じてきはじめたが、私はもはや二十歳の抒情詩人ではなく、第一、私はかつて詩人であったことがなかった。そこで私はこのような表白に適したジャンルを模索し、告白と批評との中間形態、いわば「秘められた批評」とでもいうべき、微妙なあいまいな領域を発見したのである。(「太陽と鉄」中公文庫)

 作者によって「秘められた批評」と名付けられた、この独特な随想の中で、三島氏は次のように述べておられます。

 つらつら自分の幼時を思いめぐらすと、私にとっては、言葉の記憶は肉体の記憶よりもはるかに遠くまで遡る。世のつねの人にとっては、肉体が先に訪れ、それから言葉が訪れるのであろうに、私にとっては、まず言葉が訪れて、ずっとあとから、甚だ気の進まぬ様子で、そのときすでに観念的な姿をしていたところの肉体が訪れたが、その肉体は云うまでもなく、すでに言葉に蝕まれていた。(同上)

 この「言葉に蝕まれて」いるという独自の感覚は「文弱の極み」とでも称すべき「病態」でしょう。彼は世界に対して「言葉」を介さずに接したり踏み込んだりすることが極度に不得手だったのではないかと思います。その性来の「筋金入りの文弱」を食い破るための抵抗が、あの「名状し難い茶番」のような割腹自殺に行き着いたのではないでしょうか。人並み外れた「文学的才能」に恵まれていたために、現実との自然な「交感」を禁じられた孤独な個人が「言葉に蝕まれた肉体」を破壊するために、あの自決は企図されたのではないでしょうか。

 そのような図式で考えると、三島氏の最期は猶更「凄愴」な印象を与えますね。「言葉」という病、或いは「意味という病」(©柄谷行人)に蝕まれ、侵された己を処決するために、あのような極端な行動が選び取られたのだと思うと、不吉な寒気を覚えます。果たしてそれを「才能」と呼ぶべきなのかも分からなくなります。

 また結論のない文章、しかも不完全燃焼は相変わらずです。

 船橋サラダ坊主でした! 

金閣寺 (新潮文庫)

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