サラダ坊主日記

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「レイシズム」という宗教 映画「杉原千畝 スギハラチウネ」をめぐって 1

 どうもこんばんは、サラダ坊主です。

 先日、船橋ららぽーとで最近公開された唐沢寿明主演の映画「杉原千畝 スギハラチウネ」を鑑賞してまいりました。第二次世界大戦中の東欧リトアニアを舞台に、ナチスドイツから民族浄化の対象に選ばれ、行き場を失ったユダヤ人たちのために、本国の許可も得ず、自らの外交官としての将来を擲って独断で亡命のための査証を発給し続けた杉原は、今でもリトアニアの人々から崇敬の念を集めているそうです。

 物語は原則として杉原の生涯を追い、窮迫するユダヤ人たちの命を救うために危険を顧みずヴィザの発給に踏み切った彼の決断を美談風に描くことを本筋としているのですが、それだけではこの作品の魅力と価値の総てを説明したことにはならないでしょう。そういう単純な描き方だけで、この作品の監督や製作スタッフや俳優たちは満足しているようには思えません。私の印象では、この作品の意図は、杉原千畝という外交官の生涯を伝記風の美談として表現することに存するのではなく、あくまでも杉原千畝という一個のユニークな人物をファインダーとして、第二次世界大戦に揺れ動く当時の国際情勢、その悲劇的な歴史の諸相を描き出すことにあるのではないかと感じました。

 映画自体の出来は特別に傑出しているとは思わないのですが、表現された世界が総て「歴史的事実」に基づいていることの迫力と深みには、心を揺さ振られない訳にはいきませんでした。幾つか書き留めておきたいポイントはありますが、先ずはこれ。

①なぜユダヤ人はあれほどの「集合的憎悪」の標的に選ばれたのか?

 作中でもキャプションで簡潔な説明が示されていましたが、第二次世界大戦中、ナチスドイツによって虐殺されたユダヤ民族の総数は六百万人に達すると言われています。これほどの集中的な憎悪の対象として「ユダヤ人」という特定の宗教によって結びついた民族的集団が選択された背景には、強固なキリスト教社会であるヨーロッパにおいて長年蓄積され、強められてきた反ユダヤ主義の土壌があります。

 ユダヤ人に対する差別は、決してナチスドイツの発明品という訳ではなく、古代ローマ時代から連綿と続いてきた宗教的な対立を基盤として妄想的に増殖し、強化されたものです。その要因は実に様々なものがありますが、例えばキリスト教の一部にはユダヤ人を「イエス・キリストを殺した罪人」として憎悪する風潮があります。キリスト教というのは本来ユダヤの内部から出てきた宗教的な改革であり、そういった意味ではユダヤに対する憎悪は「同胞への敵意」とも言い得るのですが、彼らキリスト教徒はユダヤに対する否定として自己形成を遂げた側面があり、ユダヤ教という民族的な宗教を、民族の垣根を問わない普遍的な宗教へ書き替えることで爆発的な数の信徒を獲得することに成功しました。そのような経緯を考えれば、あくまでもユダヤという宗教的枠組みに固執し続けるユダヤ民族を、勢力を蓄え版図を大きく拡張したキリスト教が目障りに思うのは当然でしょう。私たち日本人には余り馴染み深い話ではないかもしれませんが、宗教的な対立というのはヨーロッパの長大な歴史を通じて絶えず巨大な悲劇と紛争の火種として機能し続けてきました。十字軍に象徴されるイスラム教との劇しい抗争は無論のこと、教会の内部でもカトリック正教会カトリックプロテスタントなど、宗派による対立は時に流血を伴う惨事を招来してきました。

 ユダヤもキリストもイスラムも、その出自には少なからず共通の要素を含んでいるのですが、問題はその敬虔な信仰が「一神教」という排他的な構造を有することに存しています。よく言われることですが、日本には「神仏習合」という考え方があり、日本古来の土着の神々と、インドから中国・朝鮮を経由して伝播した外来の宗教である仏教の神々を「権現」といった便利な手法で混ぜ合わせ、宥和させてしまう伝統がありますが、ユダヤ教のように絶対的な唯一神を信じ、選民思想に基づいた閉鎖的な共同体を営む人々にとって、複数の異質な神々を混在させるということは、秩序の紊乱と破壊に他ならない悪魔的な行為です。言い換えれば、それだけ宗教的な対立が先鋭化し、妥協も譲歩も困難になるということです。そして元来、ヘブライ人の民族的な宗教として信仰されてきたユダヤ教から、民族の境界を超越した普遍的な宗教として、イエスによるキリスト教が起こり、やがてムハンマドによるイスラム教が勃興しました。

 歴史が示す通り、キリスト教イスラム教も信仰の違い、教義の解釈の違いなど、様々な理由に基づいて分派を繰り返し、時には武力を伴った抗争に踏み切りながら、現代に至っています。キリスト教ギリシャ・ローマを通じてヨーロッパ全土へと勢力を広げ、その過程でユダヤ教のような民族性を減殺され、抽象的な普遍化の道を辿りました。キリスト教の影響に隅々まで感染したヨーロッパ社会において、古代の戒律を頑なに遵守し続ける「キリスト殺しの民」ユダヤ人の存在が、迫害や誹謗の対象となるのは自然な成り行きでしょう。つまり、ナチスドイツによるユダヤ民族への迫害には、紀元前から連綿と続いてきた宗教的な対立感情が基盤として関与しているということなのです。

 そのような宗教的対立に依拠する反ユダヤ主義はやがて、反セム主義(Antisemitism)という人種差別的な観念の体系へと変質を遂げていきました。無論、ユダヤ教ヘブライ人の民族性に依拠して創成された土着の信仰が母胎ですから、特定の民族との間に強い結びつきを有していたのですが、肝心のユダヤ教徒たちは長年の迫害によって特定の国家を持たない離散状態に留め置かれ、様々な民族との混血を重ねた結果、人種的な意味での共通性を失っており、ユダヤ人というレッテルで具体的な民族を指し示すことは事実上、不可能となっていました。言い換えれば、ユダヤ教も民族の紐帯を越えた普遍的な宗教へと変貌したということです。

 このような宗教的差別から人種的差別への重点の移行は何を意味しているのでしょうか? ナチスドイツを率いた総統アドルフ・ヒトラーは「アーリア人の優越」と「ユダヤ人の排斥」を国是として掲げました。彼が制定した法律によれば、本人がユダヤへの信仰を有していなくとも、両親や祖父母が一人でも「ユダヤへの信仰を有していた」ことが確認されるならば、その者はユダヤ人であるということになります。つまり、ナチスドイツにとっての「ユダヤ人」は宗教的な帰属の問題ではないということです。彼がユダヤ人を憎悪するのは、彼らの宗教性の問題ではなく、恐らく民族的な同化を果たして人種的な共通性や特徴を失った「ユダヤ人」に対する陰謀論的な執着の結果ではないのかと、私は考えます。

 差別というのは様々な経緯の連なりの結果として生み出される社会的な構造であり、そこでは「原因と結果を取り違える錯覚」が強力な作用を及ぼすものです。ナチスホロコーストに対する病的な執着は、ヨーロッパという人体の隅々に紛れ込んだ「ユダヤ」というウイルスを是が非でも除去し、根絶しようとする情熱に譬えることが出来ます。言い換えれば、彼は何らかの「ウイルス」を必要としていて、そこにキリスト教社会の伝統的な慣習である反ユダヤ主義が接合されたということなのかもしれません。「ユダヤ人」が標的にされるのは、歴史的な宗教問題の経緯によるものですが、それを疑似的な人種問題に摩り替え、苛烈な迫害を加えるのは「標的は誰でも構わない」「標的はルールに基づいて幾らでも変更可能である」というのが差別の本質だということを暗示しているのではないでしょうか。言い換えるなら、差別の本質とは差別されるべき特定の対象に存在するのではなく、誰かを差別しなければならないという能動的な加害性を出発点としていて、被害者は加害者の欲望に基づいて後天的に捏造されるのではないか、ということです。

 長くなり過ぎたので、続きはまた次回にします。

 船橋からサラダ坊主がお届けしました!