サラダ坊主日記

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「レイシズム」という宗教 映画「杉原千畝 スギハラチウネ」をめぐって 2

 どうもこんにちは、サラダ坊主です。

 先日アップしたエントリーの続きを書こうと思います。

saladboze.hatenablog.com

 ヘブライ人の民族的共同体における宗教的信仰として形成されたと思しきユダヤ教は、ナザレのイエスという革命的な改革者によってキリスト教を生み出しました。キリスト教は長い弾圧の時期を経て、ローマ帝国の国教となることで一挙にその地位を向上させ、勢力を拡大することに成功し、固有の神を有する様々な民族を併呑しながら、ヨーロッパという世界を席巻して、今日に至っています。一方、中東のアラブ人たちはムハンマドの創始したイスラムの信仰を受け容れ、キリスト教に負けず劣らず、広範な地域に信徒を抱える世界宗教としての地位を、現在のイスラム教は確立しています。

 これらの宗教は、その濫觴を共有しながらも、互いに相容れることなく度々深刻な対立と係争を繰り返し、両者の本質的な和解は現代においても実現されていません。無論、両者の対立は純粋に宗教的な理由だけに基づいている訳ではなく、人種の壁、言語の壁、国家の壁、文化と習俗の壁など、多様な障壁によって齎されているので、単純に「宗教戦争」という用語だけで総てを一括することは不可能ですが、これらの深刻な対立が「宗教」という要素を含むことで一層、解決の困難な問題と化していることも明白な事実でしょう。その根底には、これら三つの異質な信仰が悉く「一神教」という特質を有しているという動かし難い現実が存しています。

 一神教というのは文字通り、唯一絶対の存在としての神を信仰する宗教であり、その信徒たちは「神の複数性」を認めません。ギリシャローマ神話北欧神話、日本の神道、仏教などでは、神々が複数存在しており、多様な生態系を構築することは少しも奇異なことではなく、それに対する心理的な抵抗も極めて薄弱ですが、一神教においてはそもそも「神々」という観念自体が成立し難い誤謬として捉えられます。唯一絶対の存在である神は、多神教的な風土における「神」とは根本的に異質な理念であり、それは日本における神仏とは違って、具体的な形象を与えられることすらないのです。ユダヤ教キリスト教イスラム教、これら三つの代表的な一神教は、互いに対立し合う間柄でありながら、偶像崇拝の禁止という戒律に関しては、その方針を合致させています。私たち日本人の大半は、例えば寺院で釈迦如来観音菩薩の偶像を拝むことに何の痛痒も違和も感じないでしょうが、厳格な一神教の信徒たちは、異教の偶像を物理的に破壊することにも非常に熱心です。それは彼らが異教の神々を憎んでいることの表れであると同時に、彼らにとって神が「具体的な形象を持たない絶対的な超越者」として認知されていることの反映でもあるでしょう。

 ギリシャ神話や古事記に綴られている多神教の神々が実に人間臭く、世俗の匂いを芬々と漂わせているのとは対蹠的に、キリスト教イスラム教にとっての「神」は秋霜烈日の厳しさを持ち、人間的な論理を超越した「不可解な存在」として形象化されています。この「人間」と「神」との距離感というのは、一神教的風土と多神教的風土とでは目立って差異があります。ギリシャ・ローマの神々は極めて汎神論的で遍在的ですが、ユダヤの神は欠片ほどの俗臭も纏わぬ「垂直的」な存在です。この「絶対的な疎隔」という感覚は「神の姿を偶像化しない」という戒律と密接に結びついているのだと思います。「神の似姿」を人間の手で拵えるのは冒涜であり、それは「神の絶対性」を損なう行為なのです。

 この一神教的な「絶対性」は、異教の神に対する徹底的な排他性を生み出します。唯一絶対の「神」を信じる人々にとって、異教の神々というのはそれ自体が「神への冒涜」だからです。自らの信仰の正統性を担保するためには、異教の神々を野放しにする訳にはいきません。こうして一神教的な「純化への欲望」は果てしなくエスカレートしていきます。一神教的な欲望は、原理的に「異教への寛容」を自らの倫理的な規範として掲げることが出来ないのです。

 この一神教的な欲望というのは必ずしも普遍的な宗教の本質という訳ではなく、西欧社会に根付いた「一神教的な思考の枠組み」というのも、世界中で採用されている価値観の範型ではありません。何だか分かり難い言い方で申し訳ないのですが、ある自らの宗教的な信仰に対して「一神教的な価値観」を以て対峙し、取り組むという生存の様式は恐らく、ヨーロッパに固有の特徴で、ヨーロッパと呼ばれる世界の原理的な本質なのではないかと私は考えます。

 一神教的であるということは、物事の基準を単一化・絶対化・純化しようとする態度のことであり、そこには当然のことながら厳格な審判と仕分けが伴います。それはキリスト教の教説を徴してみれば明確に見出される特徴であって、彼らにとって唯一絶対の「神」とは「裁判官」であり、「神」は善悪の基準に基づいて地上の人々に「審判」を下す存在として崇められています。しかし、宗教的信仰が常に「審判」とか「裁き」といった概念と密接に結び合う必要はない筈で、実際に地上に存在する総ての宗教的思想がキリスト教的な「裁判官」への崇敬を護持している訳ではありません。言い換えれば、西洋社会の基盤ともいうべきキリスト教の観念的な体系は「善悪の審判」という超越的な役割を前面に押し出すことによって、人々の信仰を支配しているのであり、その信仰の性質は、宗教以外の様々な分野に関しても、ヨーロッパの人々の思考の根幹に重要な影響を及ぼしているように見える、ということなのです。

 このような絶対的基準に準拠した審判の徹底性が存在する限り、ユダヤ教キリスト教イスラム教の相互的な宥和ということは非常に困難であると言わざるを得ません。原理的な対決を忌避しない限り、彼らの「差異」はどんどん明瞭に可視化されていくばかりで、妥協の余地が縮小してしまうからです。日本における「神仏習合」のような考え方は、そのような原理的対決を済崩しに取り潰してしまいますが、だからと言ってそれが「合理的で誠実な解決」だと言い切る自信は、私にはありません。何と言ったらいいのでしょう、西洋においては「自己の所属」「自己の本質」「自己の正義」ということが絶えず厳しく問題になり、従って「宗教的信仰の問題」も互いに気安く譲歩し得るものではなくなってしまうのですが、日本的な「雑居性」を直ちに肯定するのも本質的な解決には繋がらないという気がするのです。

 ヨーロッパや中国など、民族の混淆が頻繁で国境線が幾度も書き替えられてきたような土地において、自己の帰属の問題、アイデンティティの問題が重要な意義を持つのは当然で、歴史的な系譜が容易に断絶されてしまうからこそ、歴史に対する認識の重要性が骨身に沁みるという逆説が成立するのも自明の理であると言えます。一方、日本のように孤立した島国で、他国からの侵略に晒された経験に乏しい土地では、そのような自己の帰属や正義を巡る「原理主義的思考」が育ち難いのも自然な成り行きなのかもしれません。無論、日本にも部落差別があり、外国人に対する排外的な感情が根強いことは紛れもない事実です。けれど、それは日本という国家の歴史が丸ごと断絶してしまうような絶対的な「審判の経験」とは異質であると看做すべきでしょう。

 ナチスドイツがアウシュビッツやその他の強制収容所で、ユダヤやロマの人々に対して実施した虐待の非人間的な苛烈さは、極めてファンダメンタルなものです。それは単なる野蛮さとは異質で、その背景にキリスト教社会が長年培養してきた宗教的・人種的な差別の感情が介在していることは確実であるかと思われます。しかし、そのような感情が何故、ナチスドイツにおいて「ホロコースト」という形で大規模な結実を見たのか、ということは正直、よく分かりません。無論、ユダヤへの迫害を行なったのはナチスだけではないですし、そもそも迫害の対象は時代の趨勢に応じて、周囲の環境の変化に応じて幾らでも遷移していきます。今日、ヨーロッパ社会の根幹を占めているキリスト教も、ローマ帝国から実に劇しい弾圧を蒙ってきたのですから、歴史を長いスパンで顧みれば、迫害と弾圧の被害者はユダヤ人に限られる訳ではないのです。しかし、そうだとしても、ユダヤという或る緩やかなエスニックグループが、千年以上も持続的な差別の対象に選ばれ続けてきたことの意味は、しっかりと見つめ直してみなければならないでしょう。もっと言えば、「差別」とは一体何なのか、「宗教」とは一体何なのか、という問題を、空疎な他人事ではなく、自らの人生にも関わりのある「問題」として積極的に問い詰めなければならないでしょう。

 とはいえ、私の未熟な知識と知性では、直ぐに明確な答えを掴むことは難しいです。今後も持続的に検討を積み重ねていきたいと思います。以上、サラダ坊主でした!