サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

小説を書くという特殊な作業 「それは何が語っているのか?」

 どうもこんにちは、サラダ坊主です。

 今日も何の脈絡もなく、思いついたことを書き記したいと思います。

 以前にも何度か触れたことがあるのですが、私は昔から個人的な趣味として小説を書いてきました。殆どまともに完結させたこともなく、流産に流産を重ねているのが実情なのですが、そうだとしても、何かしらの「小説的な文章」を誰に強いられた訳でもなく、あくまでも自分の意志と感情に基づいてちまちまと書き連ねてきたことは明確な事実です。

 こうやってブログを書くときのモードと、所謂「小説」を書くときのモードというか呼吸は、互いに似通っているようで、実際には重要な違いがあると感じています。通常、文章というのは「私の言葉」として書き綴ることが大半であり、手紙にしてもレポートにしても企画書にしても、その文章を書き連ねている主体が「この私」であることに疑いの余地はありません。けれど、小説の場合は少々事情が異なっていて、それは間違いなく「この私」が書いているものでありながら、作品の体裁としては「この私」ではない「誰か」が語り、文字に移しているということになります。この微妙な齟齬というか、書いている私と語っている「私」との完全には重なり合うことのない「異質性」は、小説という「何もかもを虚構化するリテラルな装置」の稼働を支える根源的な条件なのだと思います。

 小説を書いているときの「私」の感覚は、現実世界に存在する具体的に指名され得る個体としての「私」が書き綴ることの感覚とは違っていて、それはいわば想定され、非現実的に虚構された「私」を通じて語るということで、そのとき私は「具体的な現実」について書いているときとは異質な「発語の経験」を味わうことになります。言い換えれば、そういう小説的な文章というものは、私たちが日常的に経験している世界に立脚している限り、絶対に持つことの出来ない「世界との関係性」を含んでいるのです。普通に生きて、普通に暮らしている限りは絶対に持ち得ない「私」と「言葉」との関係性の構造が、架空の世界を対象として発語することによって、思わぬ形で更新され、新鮮な相貌を帯び始めるのです。

 これはもちろん独特の「享楽」であって、文学的愉悦とでも称すべき体感でしょう。クリエイティブ・ライティングなんていう言葉を幾度か耳にしたことがありますが、単なる通信などの実用に供されるためではなく、自分の考えや想像に「形象」を与えることを目的として行われる「執筆」とか「文章表現」というのは恐らく、そうやって「私」と「世界」との関係性を更新する効果を狙っている筈だと思います。「小説」を書くという作業はその典型的な例であって、だからこそ、そこには私たちの日常的な現実を「模写」するような意味でのリアリズムなど不要なのです。私たちが常日頃、行住坐臥を通じて感受している現実との関係性が書き替えられないのならば、わざわざ役にも立たない文章を書き綴ることの「意義」は直ちに失われてしまうでしょう。「世界」との関係の在り方を動かすための発語は、そういった意味で単なる孤独で不毛な作業だとは言えなくなります。もっと言えば、そもそも発語とは世界を動かすための営みなのであり、それは孤独な個人が外界に向けて投じる錨のようなものなのです。

 ですから、ブログを書くことも、小説とは微妙に異なった形ではありますが、世界との関係を更新するために多かれ少なかれ役立っているのだと言えます。既知の領域に属する様々な物事を新たに「読み直す」ためにこそ、文学的な営為の総ては存在し、長い年月を経て継承されてきたのです。世界を読み替え、書き替えるための言語的な営為の重要性を、私は今後も忘れたくありません。

 以上、生粋の私的雑文となりました。サラダ坊主でした!

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