サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

再び「芽むしり仔撃ち」について / 「差別」をめぐる断片的考察

 どうもこんばんは、サラダ坊主です。

 本日は、以前にも取り上げたことのあるテーマについて、異なった角度から照明を当ててみたいと思います。

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  大江健三郎の「芽むしり仔撃ち」という小説について、以前に上記の記事を書いたのですが、改めて読み返してみても色々と物足りず、考察の甘い内容に仕上がっていたので、もう一度思うところを書き綴ってみたいと考えた次第です。

 その背景には、前回の続き物の記事を通じて捉えた「差別」という問題が関与しています。

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 リトアニアの領事として、行き場を失ったユダヤの人々に本国の許可を得ず亡命のための査証を発給し続けた杉原千畝の生涯を描いた映画について、これらの記事をアップした訳ですが、その過程で必然的に「ユダヤ人に対する差別」の問題を視界に捉えなければならなくなりました。単に追い詰められた人々の命を助けるために、国家の命令に背いた勇敢な日本人の美談として、この「杉原千畝 スギハラチウネ」という映画を消費するだけでは、例えばこの作品がリトアニアの人々に称賛された理由さえ、正しく理解することは出来ない筈です。重要なのは、何故このような「非道な差別」が行われたのか、それが何故ホロコーストという実におぞましい「惨劇」へ帰結してしまったのか、ということであり、それを考えなければ、この映画が作られた意義(商業的な意義ではなく、社会的な意義として受け取ってください)を誠実に解釈することにはならないでしょう。

 「芽むしり仔撃ち」に登場する感化院の少年たちは、戦時中の集団疎開で山奥の集落へ送り込まれますが、その村では疫病が発生しており、彼らはその疫病の蔓延する見捨てられた集落へ幽閉されてしまいます。作中では明言されてはいませんが、それは集団疎開の名を借りた「処刑」であったのかも知れません。「芽むしり仔撃ち」という奇妙な表題にも「悪い芽は大きく育つ前に毟り取ってしまうべきだ」という優生学的な選別の思想が残響しています。彼らは確かに何らかの罪を犯した結果として、感化院に収監され、世俗の生活から切断されている訳ですが、彼らの具体的な罪状は殆ど明示されません。言い換えれば、この小説の時空において「感化院の少年」という不名誉な肩書が、彼らの犯した罪の内容との間に合理的な相関性を持っていると看做される必要はない、ということでしょう。彼らは「感化院の少年」という枠組みに押し込められることによって、その固有の人間性を剥奪されます。この「剥奪」は、いわば人間の「記号化」のための手続きであり、記号化された人間の主体性や尊厳は「存在しないもの」として扱われることになります。この「記号化」の手続きが、彼らに加えられる過酷な仕打ちをエスカレートさせる基盤的な要因として働くのです。

 この「記号化」という手続きは恐らく、この世界で行われる様々な迫害や弾圧の基礎的な要件となるものだと、私は考えます。実際、この作品には全く人物の具体的な「姓名」が登場しません(「南」というのも単なる渾名に過ぎず、「李」という苗字も彼が朝鮮籍であることを意味する「記号」以上の効果を備えていません)。私には哲学的な書物を読み解く頭脳も技術もないので聞き齧りに過ぎませんが、ユダヤ人の哲学者レヴィナスは恐らく、このような「記号化」に抗うものとして「顔」について論じているようです。ようです、という曖昧な言い方をするのは、これがレヴィナスの著述に対する精密な読解から齎された認識ではなく、聞き齧った断片を材料として発酵させた、私の無根拠な妄想に過ぎないからです。

 けれど、そのような記号化の暴力が「顔」と拮抗する何かであるという理屈は明快ですし、そんなに的外れなものではないと思います。そして、そのような極度に推し進められ強化された記号化の暴力と、先日の映画「杉原千畝」をめぐるエントリーにおいて触れた「一神教的な欲望」との間に、何らかの密通めいた繋がりを見出すのも、一つの暫定的な仮説として捉える限りは、考察に値するのではないでしょうか。

 記号化というのは、そのものの固有性を剥奪し、一つの概念として、カテゴリーとして捉え直すということで、そのプロセスにおいては色々なものが捨象され、閑却されます。もっと端的な例を挙げるなら、例えば「犬」という動物を「犬」という単語に結びつけ、その単語を発声もしくは記述することで「犬」という動物を呼び出すという「意味の秩序」は、つまり「言語」は正しく「記号化」の産物であると言えます。そのとき、私たちは「犬」という単語によって一般化された或る「抽象性」としての「犬」を想起する訳ですが、そうやって用いられる「犬」という観念は、具象的な個体としての或る特定の「犬」とは関わりがありません。関わりがないというより、厳密には両者の関係性は恣意的に、任意に定義されると言うべきでしょうか。

 ナチスドイツの思惟の形式にも、このような「記号化」の有する根深い暴力性が隅々まで漲っていると言えます。彼らは本来、民族的にも多様であり、宗教的にも幾つかの派閥に分かたれているユダヤの人々を「ユダヤ人」というカテゴリーへ強制的に集約しました。それが野蛮で個人の尊厳を軽視した粗野な振舞いであったことは事実ですが、恐らくそのような記号化の体系は、それ自体が善とも悪とも言い難いものです。例えば彼らナチスドイツは「アーリア人の優越」という旗印を掲げ、ドイツという国家を民族浄化によって「正統なゲルマン民族の国家」へ作り変えるという理想主義を流布しました。そのような考え方もまた、ユダヤ人を一括りにしてホロコーストの対象に据える思惟のパターンと同型であり、両者の関係は表裏一体です。このような記号化の手続きは、多かれ少なかれあらゆる分野で用いられている人間の普遍的な智慧であり、もっと言えば今日の社会を覆い尽くしつつあるデジタル技術の数々も、そのような記号化の恩恵に他ならないと言えます。

 この記事において、私が繰り返し用いている「ナチスドイツ」という主語も、そのような個人の尊厳の黙殺の上に初めて成立する「記号化」の所産であることは言うまでもありません。そういった意味では、私もナチスも「同罪」であり「共犯」なのです。いかなる差別も、そのようなカテゴライズ=記号化の上に成り立つのであり、それは個人に対する個人的な憎悪であるというよりも、特定のカテゴリー=記号的分類に対する憎悪として形成されます。それは被害者にとって「私にとっては動かすことの出来ない理由に基づく迫害」「私が私であることとは何の関係もない理由に基づく迫害」として受け止められることになるでしょう。

 例えばイスラム原理主義の過激派組織がパリで銃を乱射して多くの命を奪ったという悲しむべき報道が全世界へ発信された途端、テロ行為とは直接無関係なムスリムに対して差別的な言動が行われる、というような現象は枚挙に遑がありません。それも個人の「顔」に基づいた攻撃ではなく、「ムスリム」というカテゴリーに向けて自動的に発射されたミサイルのようなものなのです。また、イスラム原理主義者のテロ行為に関しても、それは例えば「フランス」に対する憎悪であり、個々の被害者の「個人的特性」に基づいて標的の採択が実施された訳ではありません。昔、秋葉原歩行者天国にトラックで乗り込み、無差別に通行人を殺傷した事件がありましたが、あの事件の「陰惨な印象」も、恐らくは「標的の無差別性」に由来するものでしょう。これらの「陰惨さ」は「個人的側面」が全く無視されていることに起因します。ホロコーストの陰惨な印象も同じく、対象がユダヤ人であるというだけで、虐待や殺戮に値するという思惟の救い難い「短絡」に基づいているのではないでしょうか。

 「この私」の「固有性」を、かつて柄谷行人は「単独性」と呼びました。それは「この私」に他人と異質な何らかの「個性」=「特殊性」があるという意味ではありません。何の特徴もない凡庸な個体であっても、それが個体であるというだけで、他とは交換のし難い「単独性」があるのだ、という理路です。そのとき、氏は聖書の「ヨブ記」について触れながら、単独性=「この私」が無視されていることに違和感を覚えたと述べておられます。この「違和感」は正しく「記号化」されることへの違和感であると言い換えられるでしょう。「記号化」するということは、対象の固有性を捨象して、それを「交換可能なもの」に読み替えるということです。そのとき「この私」の絶対的な特異性=交換不能性は取り消されてしまいます。それを私は「記号化の暴力」という言葉で呼んでいるのです。

 「感化院の少年」というのは単独性の消去の上に成り立つ記号化の産物であり、村人や村長や引率の教官といった登場人物たちの属性も、所詮は一般化された「ラベル」でしかありません。つまり、この「芽むしり仔撃ち」という作品においては、人間の固有性は常に「記号化」の圧力に晒されているのです。それが「暴力」の際限のない亢進を招き、もっと言えば「管理することへの欲望」を無限に高揚させていることが、この作品からは如実に読み取れます。

 このような「記号化」の傾向は、例えば安部公房の作品にも指摘し得る顕著な徴候であり、「砂の女」にしても「燃えつきた地図」においても、現れる人物は皆一様に「記号的な表象」を割り当てられています。「燃えつきた地図」などは特に露骨で、探偵の「僕」が追いかける根室課長の「失踪」とは、物理的な失踪であるというよりも「記号化による個体の消滅」という意味ではないのかと考えたくなります。「記号化」によって「この私」の存在の輪郭が曖昧に掠れ、読み取れない痕跡のように変貌していく有様を、安部氏は書いているのではないでしょうか。大江氏の作品も、安部氏とはベクトルが異なりますが、そのような「記号化の暴力」について書いているように見えます。これに関してはもっと考察を積み重ねていく必要がありますが。

 今回はここまで。船橋からサラダ坊主が御送りしました!

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芽むしり仔撃ち (新潮文庫)

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