サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「胎児」から「対自」へ / 「未生」の脱却について

 どうもこんばんは、サラダ坊主です。

 今夜も抽象的なタイトルの記事を書きます。

 以前、こういうエントリーをアップしたことがあります。 

saladboze.hatenablog.com

 この記事の中で私は、人間の特質として「記憶」という機能が爆発的な進化を遂げたこと、記憶を「想起」する力によって、動物的な本能に規定された「現在的事実」の拘束を断ち切り、思索と想像の生き物として生きることが可能になったことを、個人的な妄言として綴りました。

 記憶したものを想起する力、言い換えれば「存在しないものを知覚する力」の獲得は、人間の類的な発展において重要な意義を有しています。言い換えれば、私たちの思考は「想起」という精神的な機能の御蔭で「現実」から切り離された「イメージ」の世界を所有することに成功したのです。

 このイメージの力は、別の言葉で表現するならば「フィクションを構築する力」でもあります。イメージというのは存在しないものですから、定義上、常に「非現実的な虚構」として私たちの精神に関与します。その非現実的な「虚構」を取り扱うことで、私たちは想像的に「異質な現実」「可能的な現実」についての分析と検討を重ねることが出来るのです。

 恐らく、私たちの内的な「自意識」という得体の知れない怪物も、このようなイメージの構築を繰り返すうちに少しずつ形成されてきたのではないかと思います。一般的な意味での「意識」は、作り出された「イメージ」と「イメージ」の「間」に存在する一つの抽象的な関係性のようなものです。イメージ同士の相互的な関係、その網目状の結節の総体が、私たちの言葉では「意識」と呼ばれているのでしょう。その意識の中でも、考えている自分自身との間に関係性を持つイメージは「自意識」と呼ばれます。

 よく用いられる譬えに、「眼球は眼球自身の姿を目視することは出来ない」というのがあります。これは「見る自己」と「見られる自己」、「語る自己」と「語られる自己」、「主体的な自己」と「客体的な自己」といった二元論的語法で扱われるもので、私たちは多かれ少なかれ「自分」という曖昧な存在と向き合いながら、日々の生活に追われています。このとき「自分」という存在が独特の曖昧さを発揮するのは、それが本来、明確な定義や範囲の確定されない、茫洋たる「領域」のようなものだからです。

 例えば赤ん坊は、自他の区別に関して明確な観念や意識を持ち合わせていません。赤ん坊は人間の長い成長過程の出発点に位置する生存の様態であり、その意識のレベルは限りなく「動物」に近いと言えます。このプリミティブな意識は「自分」という存在を客体的に把握する力が極めて弱く、従って「他者」に対する認識も同様に薄弱なものとなります。

 それでも私たちは物も言えない赤ん坊の時代から徐々に成長することで、「自己」に対する認識を深めていき、自意識を強化していきます。この自意識の強化は、言い換えるなら「自己の客体化」というプロセスであり、曖昧模糊たる「自分」という領域に関して明晰な認識を積み重ね、組み合わせていくことで、精神的な成熟を齎します。

 この「客体化」という精神的な過程は、自己という存在を「自己から切り離す」プロセスを辿り、最終的には「眼球そのもの」にまで縮減されていきます。このような「自己の縮減」こそ「他者に対する寛容と理解」を涵養する基礎的な資質であり、私たちの社会的な成熟に不可欠の条件です。赤ん坊にとって「自分」という存在の範囲は世界の総てであり、客観的に見れば赤ん坊にとっての「世界」は「自分」と同一であり、両者を切り離して捉えることは出来ません。当て推量で言うのですが、例えば仏教の禅宗における「未生」とは、そのような「自分」と「世界」との分化が始まる以前の渾然一体たる状態を指しているのではないでしょうか。

 このような「未生」の段階から一歩進み出て、「自分」というものを「世界」から切断するとき、いわば「臍の緒」を断ち切った瞬間から、私たちの精神的成長は始まります。それが「生まれる」ということであるならば、私たちの「生」は常に「世界」から「自分」を切り離すプロセスであり、その「自己」の範囲を限りなく縮減していく過程であると言えるでしょう。「未生」の状態に置かれているとき、私たちは完全なるナルシシズムの閉域に閉じ込められています。「自己」と「世界」を等号で結び付けて疑わないのは、いかにも幼児的な特質であると言えますし、例えば幼児にとって「自分」と「親」とを切り離して捉えるのは非常に困難な作業です。ナルシシズム的な自意識にとっては、胎児的な未分化の状態こそ最も幸福で、安楽に満ちた存在の様式だからです。

 以前、ゆうきまさみの「機動警察パトレイバー」という作品について書いたときも、私は「新世紀エヴァンゲリオン」において典型的に表出されているような「自己」と「世界」とを直結させる思惟の形式について触れました。

saladboze.hatenablog.com

  このエヴァンゲリオン的な世界把握の形式は正に、「未生」のナルシシズム的閉域に拘束された人間に固有の精神的特質であると言えます。「自分」と「世界」との区別がつかない者にとって、「自分の崩壊」は「世界の崩壊」と同義です。しかし本来「世界」とは「わたし」の思惑や主義主張とは無関係に自律して存在する運動の総体であり、「わたし」の個人的な哀しみが「世界の崩壊」を招来することなど絶対に有り得ません。このような短絡的思考は言い換えるならば「呪術的思考」であり、その「呪術」の根源には「自己」を把握し得ない「未生」の幻想が底流しているのです。

 私たちはそのような「胎児的生存」の様態から徐々に「対自的生存」へと成長の駒を進めていくべき生き物です。何故ならそれこそが「人間」という特殊な動物に特権的に与えられ、認められた重要な特質だからです。「対自」とは即ち「自己を客体化する」作業であり、「自己」と「世界」の等式を踏み破り、投げ捨てることです。そのような「自己の縮減」を繰り返し積み重ねていくことで、私たちは初めて「世界」を精密に理解する条件を手に入れることが出来るようになります。

 「対自」の対義語として用いられる「即自」は、自分という枠組みに無自覚的に耽溺している状態を指しており、そのような「即自」の様態に幽閉された人間の眼には「世界の実相」など決して映り得ません。「自意識」と「世界」とを直接的に接合するような思惟の形式は、その時点で既に不健全であり、未成熟なのです。「対自」とは「即自」の無自覚な耽溺状態からの脱却を意味しており、それは「わたし」と「世界」との関係を適正化することでもあります。例えば、こうやって自分の考えを外在的な形象としての「ことば」に置き換えていく作業も、「わたし」と「世界」との関係性を読み替え、編集を繰り返すことで、即自的な「わたし」から脱け出るための地道な取り組みに他ならないのです。

 「ことば」もまた、「わたし」という混沌たる領域の内部に散乱している「未生」の要素を「客観的な対象物」として抽出し、剔抉するための重要な媒体ということになります。だから「書く」という地道な営為は、人間の精神にとって大きな「奇蹟」であり「祈り」であり得るのです。何故なら「ことば」というのは原理的に「わたし」の外部から訪れる客観的な体系なのですから。そのような客観的体系の鋳型に輪郭の定まらぬ「わたし」を流し込むことで、私たちの精神は徐々に社会化されていくものなのだと思います。

 以上、今夜も訳の分からぬ文章となりました。

 船橋からサラダ坊主がお届けしました!