サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

堆積する時間の中を生きていく 是枝裕和監督「海街diary」

 どうもこんばんは、サラダ坊主です。

 2016年、明けましておめでとうございます。

 元旦を迎えたばかりの夜更けに徒然と、例によって勝手気ままな雑文を草したいと思います。

 昨年、幾つか見た映画の中で一番印象的だったものはどれだろうと、先日何となく考えていたら、思い浮かんだのは是枝裕和監督の「海街diary」でした。綾瀬はるか長澤まさみ広瀬すずなど、豪華な役者を贅沢に使って、美しい風景を繊細且つ鮮明に切り取ることで構成されたこの映画は、先日の記事で取り上げた山田洋次監督の「母と暮せば」と同じく、明確なカタルシスを備えた劇的構成を持たない作品ですが、「母と暮せば」とは違って充分に「映画的な映画」であったと私は思います。

 筋書き自体はそれほど奇異でも奇抜でもなく、メロドラマ的な泥仕合が仰々しく演じられる訳でもなく、あくまでも淡々としたリズムで、鎌倉という街の風景と、そこに暮らす人々の慎ましい関係性が描かれるだけなのですが、この作品における「画面の密度」は尋常なものではなく、役者の芝居もその画面の密度に融け込むようなナチュラルな存在感と息遣いを最初から最後まで維持しています。幾らか入り組んでいる「血の問題」を抱えた四姉妹の穏やかな交歓と細かな当惑、葛藤などを丁寧に映し出す数々の繊細で丹念なショットは、何よりもそこに流れる「時間」の堆積を観客に感じさせます。

 恐らく、単に美しい風景を切り取るだけでは達成されることのない、独特の密度を湛えたショットは、そうした「時間」への意識の高さに裏打ちされているのではないかと思います。或る意味では、それは「達観」に基づく効果であるかもしれません。どんな出来事も包摂して着実に、平坦に流れ続ける「時間性」の感覚は、人間関係に由来する諸々の悲喜劇に付き纏いがちな「俗情」を脱色してしまいます。どんな悲しみも苦悩も、やがて時間に押し流され、記憶の奥底に沈められていくものだ、という諦念を、この映画は一つの誠実な「希望」のように描いているのです。

 それが何故「希望」なのか、ということは、一概には言えません。考え方というのは無数の形式を選択し得るし、時間の流れによって消し去られてしまうものへの執着ということも、人間の本性の重要な側面であるからです。しかし、私はこの映画において、或いは吉田秋生による原作マンガ(未読ですが)において描き出されるような「希望の様態」が好みです。共感すると言っても良いかもしれません。人によっては、こういう「平坦な情景」と「単調な物語」を「退屈」の一言で片づけてしまう方もおられるかも分かりませんが、平均的な人生というものが往々にして「骨太のストーリー」や「過激な展開」とは無縁であるように、断片的な挿話の集積として成り立っている私たちの生活を思うとき、「時間」の堆積ということは実に重要な鍵を握っているように感じられるのです。

 無論、落ち着いていて静謐で穏やかな画面の中にも、様々な種類の軋轢や葛藤は入り混じっており、それらの些細な「蹉跌」は傍目には然して重要な問題ではなくとも、当事者の心理においては決定的な意味を担っています。それを主観と客観の両面から同時に捉えるような「眼差し」に、私は「時間」という名の「希望」を見出すのです。家族関係を巡る複雑な「事情」は、当事者にとっては、特に浅野すずのように思春期の季節を生きる少女の内面においては決して軽々しいものではない「重荷」として感じられるでしょうし、別々に暮らしていた腹違いの妹と唐突に共同生活を送ることになった三人の姉たちの内面にも、それなりの疵や困惑が刻まれている訳です。何というのでしょうか、在り来たりのセリフに過ぎませんが、人は生きているだけで何かしらの疵を負うものであり、それは当人にとっては重大な瑕疵であったり支障であったりしたとしても、長い時間の流れの中に位置づけて眺めるならば、決して取り返しのつかない問題ではないと思えるもので、そのように人間が「苦悩」を客観的に取り扱う力を持っていること自体が、私たちに与えられた最大の恩寵であり希望であると思うのです。

 そして、そのような「希望」が実感として受け止められるような「時間」の実在を写し取り、表現するために、是枝監督は慎重且つ丁寧なショットを積み重ね、役者たちは決して過剰になることのない演技を貫いています。それを「自然体の演技」などと気安く呼ぶのは非礼の誹りを免かれないでしょう。重要なのは登場人物の過大な自己主張ではなく、特定のヒーローを活躍させることでもなく、あくまでも鎌倉という時空を舞台に設えて、そのなかに呪縛され、拘束された人々の地味な「生活」を浮かび上がらせることなのであり、抑制された演技も、そうした主眼に奉仕するための意識的な努力であると思うのです。

 終極的な解決が有り得ない世界で、どのように「時間」に堪えていくか、それがいつの時代も変わらぬ人間の課題であることは間違いありません。劇的な解決など望みようがないし、解決した積りでも不意に問題が蒸し返されることは珍しい事態ではなく、それでも私たちは死なない限り、生きるための行動を積み重ね、創意工夫を繰り返すしかないのです。それを絶望と断言するには、私の場合には若さが足りないということになるでしょう。生きることが、私たちの思い通りに運ぶなんて有り得ないし、その有り得なさを呪うのは余りに「純粋な希望」であり過ぎると思います。仏陀は「生老病死」と言い、「愛別離苦」と言いました。本格的に仏教に帰依する意志も覚悟も毛頭ありませんが、宗教的信仰心の帰属に関わらず、多かれ少なかれ、それは「世界の実相」であると言わざるを得ません。だから、生きていることに意味はないと早合点するのは、坂口安吾的な意味合いで「倫理的ではない」と私は思います。そもそも、生きることは総て倫理的であることと不可分であり、それは皮相な意味で「道徳的である」こととは何の関わりもない話です。倫理的であること、つまり「生きることを望むこと」のためには、無限の流転を続ける「時間」に対する感覚を少しずつでも錬磨していくことが欠かせないのです。

 香田家の三姉妹も、居場所を失った浅野家の少女も皆、明確な正義を掲げて堂々と歩んでいる訳ではなく、自分が掲げた正義の「裏面」に潜む陰鬱な欠点に少なからず視線を掴まれてしまっています。誰も無条件に、一〇〇パーセントの「完璧な幸福」など手に入れられないのが普通で、しかし「完璧な幸福」を掴めないことが直ちに「不幸の証明」となる訳でもありません。だから、人はどうすべきか最終的な結論を得られぬままに、果てしなく右往左往しながら、流れていく「時間」の重さに堪えるしかないのです。そうした屈従を「不本意な生き方」だと冷笑するのは人間の本質に反する行為だと私は思います。「時間」の重さに堪えることはそのまま、「希望」を信じることであり、もっと言えば「時間」とは常に「希望」の同義語である筈なのです。「時間」が完全に停止したとき、私たちはいかなる希望も信仰することが出来なくなります。

 映画の内容には余り触れられていませんが、重要なのは作品から「何を引き出されたか」ということですから、私的な感想を述べるだけで私は精一杯です。皆さんはどのような感想を懐かれたでしょうか? 是非一度は御覧になって頂きたい作品です。

 船橋からサラダ坊主がお届けしました!

 謹賀新年!