サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「正義感」は残酷な享楽の一種ではないのかという仮説(サディズム的欲望について)

 どうもこんばんは、サラダ坊主です。

 正月休みも終わり、世間もいよいよ平常営業を再開した印象ですが、皆様いかがお過ごしでしょうか。小売業の私は年の瀬も大晦日まで、年明けも二日から初売りで出勤と、盆も正月もないような日々を送っており、ブログの更新も儘ならないような有様です。

 疲れが溜まってくると、自分の情緒が少しずつ乱れ始めて安定を欠いていくのが実感として分かります。そうなってくると、徐々に「非寛容な気分」に陥っていくのは古今東西を問わず人間の性というものでしょうか。聖人君子ならいざ知らず、凡庸極まりない筋金入りの庶民である私の理性は、肉体の疲労に伴って少しずつ尖り、他者への寛容さを忘れがちになってしまいます。繁忙期ゆえに、何時にも況して真剣に業務に取り組まなければならないという事情も手伝っているのでしょうが、いずれにせよ寛容な精神を忘れ去るのは好ましい傾向であるとは言えません。

 曲がりなりにも責任者として、アルバイトを含めると三十余名のスタッフを抱えて現場を取り仕切っていると、当然のことながら部下社員の指導なども業務の総体の中で少なからぬ割合を占めるようになるもので、その社員の動きが自分の予想を上回って悪かったりすると、疲労と責任感に取り込まれて理性の均衡を半ば失いつつある脳味噌は、途端に熱り立ち始めます。どう考えたってこうするのが合理的だろうとか、今この状況の中で何故そのような選択が最善であると判断したのか理解出来ないとか、そもそも業務に対する姿勢が生半可なのではないかとか、色々と部下の欠点が目障りに感じられ、それを指摘し難詰する口調も自ずと厳しいものになっていきます。無論、駄目なものには駄目と毅然たる対応を行なうのが責任者に課せられた使命である以上、峻険な言葉を出し惜しみ過ぎて現場の統制が取れなくなるようでは本末転倒なのですが、それでも私は時々「不寛容な正義」に傾き過ぎている自分を自覚して慌てることがあります。いや、大して慌ててもいないのですが、過剰に先鋭化された正義というのは往々にして「公平性」を欠落させてしまうものなので、この調子で突き進んでは拙いと、消え残った良心が頭の片隅でガスを感知した金糸雀のように騒ぎ出すことがあるのです。

 私は昔から理屈っぽい人間で、人を叱るときにも理詰めで相手の言い分を捻じ伏せていくような醜悪な習慣を持っているのですが、この習慣を濫用すると相手の精神には痛みしか与えられなくなります。情け無い部下の失態にあれこれと原因や経緯を問い詰めて追い込んでいくのは、その失態が重大な問題を惹き起こしかねない案件である場合には、きちんと手を抜かずに行われるべきなのですが、そのとき私が振り翳す「正義」というのは、本当にそれほど「大切なもの」なのでしょうか。

 あんまり具体例を出すと差し障りがあるので、どうしても抽象的な文章になってしまうのですが、業務において間違いなく私の側に「正義」があり、部下の失態がどうしようもなく下らないものであったとしても、正義の発露には常に倫理的な「逡巡」が伴われるべきだと思います。私自身、しばしばそのような自戒を踏み躙りながら日々の仕事に臨んでいるのが実情だとしても、峻険な「正義」というものに付き纏う「論理的な暴力性」という奴から、眼を背ける訳にはいかない筈です。もっと言えば、正義の発露というのは一種の病的な「享楽」ではないかという危惧、或いは懸念を忘れてはならないと、冷静になったときの私は密かに考えるのです。

 正義というのは、個人の性格や資質、環境に応じて様々に形態を変化させるのが普通です。しかし、そうは言っても多数決の論理が支配するこの世界では、総ての正義が平等に取り扱われ、公平な待遇を受けられる可能性など微塵もなく、大多数の人々が共通して認める正義こそ「絶対的な正義」であると看做されるのが通例です。例えば仕事の現場で部下を叱責するとき、私は決して理不尽に怒ろうとは思っていませんし、与えられた職権を乱用して部下を精神的に追い詰めようとも考えていません。色々な角度から考え、検討を加えても尚、納得がいかない場合に限って、峻厳な語法で部下の失態を指摘し、既に何度も同じ過ちを繰り返している場合には意図的に怒ってみせます。個人の意見や価値観に対する最低限の敬意は常に重んじられ、堅持されるべきでしょうが、それでも絶対に深刻な問題へ発展すると思われる「錯誤」に関しては、毅然たる指導を加えなければ後顧の憂いを招きかねないのです。

 だとしても、正義というものには、或いは「正論の行使」というものには常に、一種のサディズム的な享楽の片鱗が潜んでいるものです。非の打ち所のない、磨き抜かれた精緻な論理を駆使して、相手の失態や罪悪を糾弾し、打ち据えるという行為には、それがどれだけ「客観的な正しさ」というものに覆われていたとしても、或る邪悪な、個人的な「享楽」への欲望が混入しているのです。それを私は明瞭に自覚しています。「正しい言葉で相手を屈伏させる」ことには、独特の「快感」が伴うものであり、どんなに「正義」の絶対性が確信し得る場合でも、その「正義」の行使に「苦痛」を感じない限りは、それはサディズム的欲望の一種であるという誹りを免かれないと、私は考えます。

 私は所謂「SMプレイ」というものに何の興味も持ち合わせていませんが、論理的な精確さを以て誰かを言い負かすときの穢れた「興奮」には心当たりが明確にあります。それがいかに相手を追い詰め、疲弊させ、消耗させるかということも十全に知悉していながら、時に怒りに堪えかねて、その「正義」という悪癖の発露に走ってしまうこともあります。そういう「サディズム的欲望」については昔から色々な方が分析を加えてきておられるので、私のような市井の庶民が改めて披歴すべきものなど何もないのですが、覚書のように綴っておきたいのです。

 サディズムという概念の精確な定義は知りませんが、その本質は「他者性の剥奪」という一点に尽きるのではないかと私は思います。もっと端的に言えば「支配」への欲望ということであり、自立した個体としての人間を「モノ」や「奴隷」や「家畜」のようなものに変えてしまうことへの欲望です。物理的な暴力を加えずとも、磨き抜かれた「論理」によって相手の尊厳を踏み躙り、相手に固有の価値観を否定し、意気消沈させるという行為にはサディズムの異臭が滲んでいます。これは或る特殊な性癖ではなくて、きちんと眼を凝らせば社会の様々な場面で行き当たる一般的な現象です。上司が部下を叱るとき、親が子を叱るとき、サディズムの誘惑から完全に自由でいることは案外難しいものです。相手を「支配」すること、コントロールすること、屈伏させること、隷属させること、それは明らかに一つの特徴的な「欲望」であり、それが「欲望」である以上は、そこに私的な「快楽」への耽溺が関わっていることは不可避的なのです。

 「正義」に化身することは比類無い残虐さを人間に授けます。「正義」というものは常に「支配することへの欲望」と密接に結びついており、実際に「正義」を巡る戦いは歴史上、幾度も酷薄な災禍を惹起してきました。「支配することへの欲望」がそれほど抜き差しならない極度の災禍にまで亢進してしまうのは、必ずしも支配の結果として得られる種々の利得や恩寵の為ではありません。「支配すること」それ自体に快楽を覚えるタイプの人間がおり、そのような人々にとって「支配」は手段ではなく目的そのものです。「支配すること」そのものが目的であり「享楽」であるような人々にとって、社会的に認められた普遍的な「正義」に化身することは、最高の隠れ蓑となる訳です。

 相変わらず雑駁な文章でした。いずれまた続きを書きたいと思います。

 船橋からサラダ坊主がお届けしました!