サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「書くこと」の始まり 村上春樹「風の歌を聴け」

 どうもこんばんは、サラダ坊主です。

 都心では結構な積雪があったようですが、私の暮らす千葉県船橋市の片隅には薄らと霙の混じった雨が劇しく降っただけで済んでしまいました。休日なので暖房の効いた家に引き籠っていたのですが、午下がりにはもう、窓の向こうには変わり身の早いことに青空が広がっていました。まるで明け方の荒天が嘘のような清々しさでした。

 さて、今日は世界的に著名な日本語作家、村上春樹氏の処女作「風の歌を聴け」について書こうと思います。最初にこの本を手に取ったのは確か中学三年生の時だったように記憶していますが、そのときの私は歯痛を患っていて、家の床に寝転がって歯痛を紛らわすためにページを捲っていたせいか、大して面白味も感じられぬままに図書館へ返してしまったような記憶があります。

 一般的にはアメリカ文学の影響を受けた斬新な青春小説といった惹句で語られることの多い「風の歌を聴け」ですが、重要なのは内容よりも表現の様式であり、もっと言えば「書くこと」を巡るチャレンジングな実践の多様性と新しさこそ、この作品の魅力を支える肝の部分だと思います。作者自身、どこかでこの小説のことを「習作」と位置付けるような発言をしていたように記憶していますが、実際、この「風の歌を聴け」という小説は堅牢な構成の物語に貫かれている訳でもなく、明確な主題によって全体を支配されている訳でもなく、あくまでも断片的な日記のように綴られ、縒り合されています。恐らく作者は、この処女作を通じて「小説を書くとは一体どういうことなのか?」という頗る原理的な問題と、具体的な実践を通じて向き合おうとしたのではないかと思います。それが結果として或る新奇な「青春の様態」を剔抉することになったのだとしても、そのこと自体は作者の事前の企図に基づくものではなく、文学的な表現の実験を重ねる過程で結果論的に析出されたものに過ぎないでしょう。

 

 僕たちが認識しようと努めるものと、実際に認識するものの間には深い淵が横たわっている。どんな長いものさしをもってしてもその深さを測りきることはできない。僕がここに書きしめすことができるのは、ただのリストだ。小説でも文学でもなければ、芸術でもない。まん中に線が1本だけ引かれた一冊のただのノートだ。教訓なら少しはあるかもしれない。

 

 もしあなたが芸術や文学を求めているのならギリシャ人の書いたものを読めばいい。真の芸術が生み出されるためには奴隷制度が必要不可欠だからだ。古代ギリシャ人がそうであったように、奴隷が畑を耕し、食事を作り、船を漕ぎ、そしてその間に市民は地中海の太陽の下で詩作に耽り、数学に取り組む。芸術とはそういったものだ。

 夜中の3時に寝静まった台所の冷蔵庫を漁るような人間には、それだけの文章しか書くことはできない。

 そして、それが僕だ。

 

 色々な捉え方の出来る文章ですが、一読して言えることは、実に落ち着いた語り口であるにも関わらず、この語り手には「書くこと」に関する明瞭な信仰や教義といったものが存在しない、或いは存在しても萌芽的なものに過ぎない、ということです。この処女作には、後の諸作品以上に当時の村上春樹氏の人格や経験がより色濃く投影されているのではないかと思います。当時の村上氏は現在のように国際的評価の高まった優れた文学者ではなく、ジャズ喫茶を経営する市井の文学好きな青年に過ぎませんでした。その「何者でもない」無名の青年が小説と呼ばれるものに手を染めるに当たり、それまでの断片的な知識や経験の中から、差し当たり有用であると看做され得る主義主張や技法を取り出して、実際にその使い勝手を確かめているような感触が、この作品の表面には露骨に滲み出ているのです。

 今、僕は語ろうと思う。

 もちろん問題は何ひとつ解決してはいないし、語り終えた時点でもあるいは事態は全く同じということになるかもしれない。結局のところ、文章を書くことは自己療養の手段ではなく、自己療養へのささやかな試みにしか過ぎないからだ。

 しかし、正直に語ることはひどくむずかしい。僕が正直になろうとすればするほど、正確な言葉は闇の奥深くへと沈みこんでいく。

 弁解するつもりはない。少くともここに語られていることは現在の僕におけるベストだ。つけ加えることは何もない。それでも僕はこんな風にも考えている。うまくいけばずっと先に、何年か何十年か先に、救済された自分を発見することができるかもしれない、と。そしてその時、象は平原に還り僕はより美しい言葉で世界を語り始めるだろう。 

  それでも「僕」には何かしら語りたいこと、語らねばならないことがあり、しかしそれを適切に説明し描写するための「言葉」の技法は未だ獲得されていない、という最もプリミティブな段階に置かれた主体が、この作品の「語り手」です。言い換えれば、ここには「書くこと」を巡っての最も根源的で原理的な悪戦苦闘の過程が刻み込まれ、露わに表現されているのです。

 その「書きたいこと」が何なのかを、予め明確に纏めた上で筆を執り、最初のセンテンスを書き始めるなどということは、誰にとっても不可能な挑戦であり、無謀な蛮行であるに決まっています。誰もが名状し難い何らかの「衝動」に揺さ振られ、その衝動の正体を私にとっても他人にとっても存在する共通の媒介である「言語」に置き換えようと努力を積み重ね、少しずつ目標に向かって躙り寄りながら、結局は「うまく言えなかった」という消化不良の感覚を抱えたまま、諦めるしかなくなるものなのです。

 この作品は、複数の断章によって構成されており、その断章同士の間には緩やかな繋がりがありますが、だからと言ってその断章が悉く一つの「原理」に向かって統合され、連結されていると看做すのは妥当な判断ではありません。恐らく「僕」はそれらの断章に結実した数多の「記憶」を自分の内部に抱え込んでおり、それを一つの視野から「物語」として再構成しようと努めたのでしょうが、その試みはあくまでも「試み」に留まっています。一つ一つの断章が持つエピソードとしての強度は、それら全体を統合し束ねる強大な「原理」を未だ見出していないために放置され、曖昧な聯関の中に没しています。誤解を避けるために附言しておきますが、私はこの作品の「無秩序」を非難している訳ではありません。何かを最初から最後まで一貫したリズムで、一貫した構図や主題の下に語り終えることは非常に困難な作業であり、しかも私たちの人生は往々にして纏まりのつかない強靭な「断片性」に隅々まで染め抜かれているものです。ですから、書くことがその「断片性」に屈伏させられることを安易に非難するのは行き過ぎた理想主義的態度であるとさえ言えます。

 この優れた「習作」は、人生の「断片」を捉えて描き出す鋭利な表現力に恵まれていますが、それは「小説」としての構成を未だ獲得していません。断章が断章としての輪郭を保ったまま、それこそ「リスト」のように肩を並べている光景は、小説的な思考の産物と呼ぶには成熟が不足しています。偉そうな書き方ですが、恐らく小説というものは、無数に散らばった断片を或る構図の中に回収する「哲学」みたいなものの介入を必要とするジャンルなのではないでしょうか。或いは「構成的意志」と呼び換えてもいいかもしれません。人生における偶発的な断片の集積に、或る一貫した「形」を与えるための営為が、小説的思考の本質ではないのかと、私は考えます。

 「風の歌を聴け」は、そうした小説的思考へ向かうための秀逸な「足懸かり」のようなものなのでしょう。架空の作家デレク・ハートフィールドへの反復される言及なども、この小説が「書くことの原理的な追究」を目指す「稽古」であることを明示しています。

 その時期、僕はそんな風に全てを数値に置き換えることによって他人に何かを伝えられるかもしれないと真剣に考えていた。そして他人に伝える何かがある限り僕は確実に存在しているはずだと。しかし当然のことながら、僕の吸った煙草の本数や上った階段の数や僕のペニスのサイズに対して誰ひとりとして興味など持ちはしない。そして僕は自分のレーゾン・デートゥルを見失ない、ひとりぼっちになった。 

 書くことを通じて何かを明示したり、他人に何かを伝えたりする原理的な困難との戦いが、この作品には埋め込まれているのです。とはいえ、実際にはそんなに理屈っぽい作品ではなく、或る青春の記憶を描いた秀逸な佳品としても愉しめるものなので、是非未読の方は書店で手に取ってみて下さい。こういう小説を書けるのはやはり、村上春樹しかいないという気分になること請け合いです。

 以上、船橋からサラダ坊主が御送りしました!

 

風の歌を聴け (講談社文庫)

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