サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

極めて甘美な「挫折」の寓話 「ブキーポップ・ミッシング ペパーミントの魔術師」をめぐる回想

 もう随分昔、勿論それが随分であるかどうかは人によって意見の分かれるところだが、私が十代前半だった頃、書店の所謂ライトノベルと呼ばれるジャンルの棚には、上遠野浩平の「ブギーポップ」シリーズが平積みにされていて、話題を呼んでいた。当時小学生か中学生だった私は、何がきっかけでそれらの作品を手に取ったのか明瞭に記憶していないが、「ブギーポップは笑わない」という文庫本を手に取ってレジへ持って行った。読み始めて、とても薄味の淡々とした文章に、知らず知らず引き摺り込まれて、あっという間に読み終えてしまったことを覚えている。学園を舞台にした物語空間の設定、複数の登場人物の一人称の独白が混じり合うナレーションの構成、決して重苦しく理屈っぽくならない(しかし適度に観念的で、世間知らずの少年には「哲学的」とさえ感じられるような)意味ありげな文体など、読者として関心を惹かれるべき要素は幾つもあったように思う。

 その頃買い集めたブギーポップシリーズの文庫本はもう一冊も手許には残っていない。こういう言い方は失礼かもしれないが、ブギーポップは決して幅広い年齢層の精神に訴えかけるような文学的強度は持ち合わせていないように思う。それは十代前半から半ばくらいまでの、心身ともに未成熟で不安定でありながら、徐々に思考能力の発達してくる思春期とやらに最も適合し易い性質を有しているような気がするのだ。

 大人になってしまえば何とも思わなくなるようなことでも、成長の過程で無暗に重大な問題としてクローズアップされるということが有り得る。現に私は昔悩んでいた多くの事柄が、今は何とも悩みようのない矮小な課題にしか見えなくなっていることを実感している。それは私が成長したからというよりも、つまり問題が具体的に克服されたからであるというよりも、単純に年齢を重ねて些末な問題に拘泥するだけの情熱を摩耗させた結果に過ぎないのではないか。無論、十代の頃の私に比べれば、今の自分はかなり世慣れてきたと言えるし、何でも実際に手を動かして遣ってみる前には不安ばかりが募るようなことであっても、いざその渦中に飛び込んで無我夢中で動いていれば大したことはないじゃないかと目醒めてしまうということも世間の通例である。悩んで悩んで論理的な解決の方法に辿り着くというのは寧ろ稀な事例であって、大抵は感覚的な麻痺や状況の変化や価値観の変貌によって「気にならなくなる」というのが実情なのだ。それを良いとも悪いとも思わない。ただ、そういうものだとしか言えない。

 ブギーポップシリーズを読むことに退屈を感じるようになったのは、幾つの時だっただろうか。作者の文学的力量を疑う訳ではないが、少なくともブギーポップという作品を通じて構築された世界の手触りは、或る程度の成熟に達した一人前の大人の鑑賞には堪え得ない脆さが含まれている。登場する登場人物たちのマンガ的な造形、青臭い独白や、奥行きがあるのかどうかよく分からない箴言風の台詞、文章。どれも薄っぺらだと言えなくもないし、実際にその表層的な軽さが虚しく感じられることもあったが、その微妙な軽薄さこそ、却って十代の悩み多き自画像を信じ込んでいる生意気な少年には手頃な相手だったかもしれない。余り難解なことは呑み込めないし、いかんせん実人生における経験値が限りなく乏しい存在である以上、世間的には立派だと目されていたり、歴史的な評価の定まっている作品などにいきなり飛びかかって挑戦してみても、十中八九振り払われて通読に挫けてしまうのが関の山なのだ。だったら、最初から微温湯に調節された適切な作品を選んだ方が合理的だし、その微温湯から出発して自分自身の体調と相談しながら徐々に温度を上げていけば良いのだ。

 しかし、である。この「ブギーポップ・ミッシング ペパーミントの魔術師」は、薄味が基本で何もかもがプラスチックのように見え透いているとも言い得る本シリーズにおいて、例外的に高い完成度と充実した読後感を兼ね備えた傑作であると私は考えている。無論、読了から既に十年以上の月日が経った今となっては、当時の感想が記憶の中で幾度も編輯に晒され、何らかの磁場に歪められて書き替えられていないと断言する根拠はどこにも見当たらない。これは私の個人的な習慣というか精神的傾向の偏りに過ぎないのかもしれないが、往々にして、或る作品が優れている理由を明快に述べることは、或る作品がいかに劣っていて不出来であるかということを縷々語るよりも遥かに困難である。大抵の物事は完璧から程遠いのが常であり、理想はいつも果てしなく空の高みへ昇り詰め得るものだから、その北極星のような理想との距離を測定して、何メートル足りないと論う方が手軽なのは当たり前だろう。それに比べれば、或る作品が傑出していることを丹念に語って立証するのは骨の折れる作業だ。

 この作品は、軌川十助という風変わりな名前の風変わりな少年が、アイスクリームの開発に特異な天才を示し、栄光を勝ち得るものの、急速に没落して何もかも失ってしまう話である。細かい話の筋書きは殆ど記憶していないが、この作品には卓越した「寓話的魅力」が備わっている。ブギーポップという作品全体を通じて言えることだが、このシリーズは常に寓話的な要素を含んでいて、一連の物語の流れは常に曖昧な教訓のようなものを滲ませている。いや、こういう言い方は厳密ではないし、精確でもない。ブギーポップシリーズに登場するキャラクターは皆、或る象徴性を担って現れると言うべきだろうか。

 例えば私は「歪曲王」や「エンブリオ」に何の魅力も感じず、読んでいる間はずっと退屈だった。後の「ホーリィ&ゴースト」などは比較的愉しめたが、結局はスリム・シェイプの正体などの種明かしが退屈で不満だった。何というか、軽過ぎるのだ。その「軽さ」はブギーポップという作品の魅力の源泉でもあるのだが、その軽さが微妙な空気抵抗を捉えられぬままに済崩しに滑空していくとき、作品の魅力は一挙に色褪せ、文学的な説得力を乾上がらせてしまう。ブギーポップが最も輝かしい魅力を放つとき、そこには必ずウェルメイドな「寓話」の質感が立ち上がって、喚起されている。なかなか巧く言葉が言いたいことに届かなくてもどかしいのだが、この「ペパーミントの魔術師」という作品においては、十助が抱え込んでいるトリックスター的な存在の個性が、栄光と挫折という古典的な物語構成と巧みに噛み合って、一瞬の価値の象徴とも呼べる「アイスクリーム」のイメージとの間に効果的な共鳴を示しているのが堪らなく素敵なのだ。

 緑色の肌を持った少年、とびきり美味しいアイスクリーム、それによって獲得される目映い社会的栄光と、日向に放置されたアイスクリームのように儚く溶け出していくその栄光の残滓。最終的に十助は総てを失って、何もない空虚な世界へ舞い戻っていく。彼は仕立て上げられた勇者であり、捏造された天才であって、その背後には正体の定かでない巨大な闇の勢力が屹立している。これらの要素が分離することもなく渾然一体と入り混じって、一つの物哀しいストーリーラインを形作っている。そこから引き出されるのは孤独な少年だけが感じ取ることの出来る「切ない幸福」だ。総てが順風満帆であると思われた矢先に悲劇的な不幸が地上を覆うのは珍しくもない話であって、アイスクリームに象徴される「直ぐに失われてしまう栄光」の魅力は、そのような世界の「残酷な真実」を物語る上で実に秀逸なメタファーとして機能しているのである。

 だから、これをライトノベルとか、或いはブギーポップのナンバリングタイトルのような枠組みに押し込めて論じたり味わったりするのは間違っていると思う。これは「青春の挫折」を主題に選んで、美しく巧妙なシンボリズムの下に抉り取り、物語として再構成した素晴らしい小説なのだから。余計なラベルは必要ない。是非、一度手に取って読んでみてほしい。少なくとも「ペパーミントの魔術師」だけは、成長してマンガやアニメを卒業した世間一般の社会人の鑑賞にも堪え得る、強靭な「文学的魅力」を湛えている。