サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

顔が見えないとき、人は幾らでも「残酷」になれる

 以前、ナチス・ドイツによるユダヤ人のホロコーストを背景に、日本人外交官の半生を描いた映画について記事を書いたことがある。

saladboze.hatenablog.com

saladboze.hatenablog.com

 その中で私はユダヤ人哲学者レヴィナスの「顔」という概念について軽く触れた。無論、市井の凡人に過ぎない私に、難解を以て知られるレヴィナスの哲学的考想を理解する能力などない。だから、これは私の勝手な私的敷衍ということになる。

 レヴィナスにおける「顔」という概念は、極めて重層的な意味を持っているように見える。それは絶対に侵すことの不可能な「他者」の象徴であると同時に「殺害への誘惑」を駆り立てるものでもある。この「殺害への誘惑」という考え方が、他人の「顔」を単なる固有性の象徴として解釈することを妨げている。「顔」という概念は絶対に理解することも共感することも不可能であるような「他者」の領域を示しているが、その「他者」の領域が「殺害への誘惑」を孕むとはどういうことなのか。

 余り小難しいことを考え出してもきりがないので端的に言えば、他人の「顔」というのは他人の他人であることの完全な表出であって、他者の象徴であり、尚且つそれはどうしても踏み躙ることの出来ない絶対性なのだ、ということになる。あくまでもこれは私の勝手に考えたことなので、レヴィナスがそのように論じているということではない。

 物理的な意味での「殺害」を誘惑したとしても、つまり他者への憎しみから「殺害」を企図したとしても、本質的な意味で殺すことも奪い取ることも出来ない絶対的に異質な領域の象徴として「顔」は存在する。その「顔」を物理的な意味で傷つけたり踏み躙ったりすることは容易だが、仮にその生命を奪ったとしても「顔」の絶対性は微塵も損なわれることがない。だからこそ、殺したくなるのだと言うべきだろうか。どうしても奪い取ることが出来ず、痛めつけることも否定することも出来ない「他人の絶対性」に挑発され、踊らされた挙句に、殺意を抑え切れなくなるのではないか。その結果として種々の残虐な暴力が現実化する訳だが、それでも失われないものとして「顔」は定義される。

 言い換えれば、「顔」は絶対に殺し得ないものとして存在する故に、その「他者」への攻撃を躊躇させる効果がある訳だ。殺して、息の根を止めた積りでも尚、亡霊のように、他者の殺害の不可能性の象徴のように生き残り続ける「顔」というイメージに脅やかされて、人は「殺すこと」を躊躇わずにはいられなくなる。だからこそ、具体的な「顔」の剥奪は、殺すことが伴う種々の「懼れ」を一挙に剥奪してしまうだろう。具体的な顔や名前を持たない無機質な「物体」のような相手を殺すことに逡巡など不要である。言い換えれば、「顔」とは「物体」と「人間」とを区分する重要な標識であるということにもなるだろう。

 さて、ここまでは不毛な前置きである。

 先日、私はこのブログにおいて「ブギーポップ ミッシング ペパーミントの魔術師」に関する記事を書いた。

saladboze.hatenablog.com

 数えるほどの読者しか持たず、微々たるアクセス数しか集まらない「サラダ坊主日記」においては珍しくブックマークコメントがつき、ツイッターから夥しいアクセスが流入してきたのだが、そのなかで批判的なコメントを頂戴した。なかなか手厳しい一刀両断のコメントだったので、黙殺しようかとも考えたが、たとえネガティブな意見であったとしても折角頂戴した意見である以上、何らかのコメントを返さなければ礼を失すると考え直し、ここに引用させて頂く。

なんのことはない評者の人間性と知性と教養が幼稚で薄っぺらいという自己紹介の駄文。石森ライダーオマージュすら理解できない教養の足りない権威主義者はLANケーブルで首吊って死ねとしか言いようがない。           

 これはmirunaさんという方から頂いたブックマークコメントである。随分と手荒な言い方というか、批判というよりも単純な罵倒に近いようなものであるが、少なくともmirunaさんが私の書いた文章を読んで猛烈な不快感を催されたらしいということは明白である。ついでにもう一つ紹介しておこう。

まあ、こういう文章を書いている自分を“大人”だと思っているようなタイプには、確かに向かない作品だと思います。>ブギポ

 

「「ペパーミントの魔術師」だけは、成長してマンガやアニメを卒業した世間一般の社会人の鑑賞にも堪え得る」と言うから、オタ趣味から足洗って“大人”になった人なのかなと思ってたら、なろうで異世界ファンタジー書いてるじゃねえかぁああ!  

  これはshimomurayoshikoさんという方が、私の書いた文章について発したツイートの引用である。御丁寧に「小説家になろう」の私の作品ページへのリンクまで貼ってくれているのは恐悦至極である。

 まずmirunaさんのコメントに関してであるが、私の「人間性と知性と教養が幼稚で薄っぺらい」という部分は、一体どういう基準に照らしての話なのか、一読して分からなかった。別に反対する積りもない。私の人間性と知性と教養が、世間一般の基準と照して劣っているのだとしたら、そうですかと申し上げるしかないだろう。あの拙い文章から、私の幼稚な人間性と薄っぺらい教養を見事に汲み取ってくれるほど熟読して下さったのだとすれば、これほど誠実な読者は他に考えられないと言えるだろう。

 続いて「石森ライダーオマージュすら理解できない教養の足りない権威主義者はLANケーブルで首吊って死ねとしか言いようがない」の件であるが、残念ながら私の自宅は無線で電波を飛ばしている都合上、LANケーブルで首を吊るということが物理的に不可能であるのが残念である。そもそも、何故私が首を吊って死ねばならないのか、mirunaさんの仰る意図が即座に掴めなかった。「石森ライダーオマージュすら理解できない教養の足りない権威主義者」ということであるから、先ほどの「教養が薄っぺらい」という観測結果は、私がブギーポップに籠められたオマージュの意味を理解していないということに起因するものであるようだ。「石森ライダー」とは石ノ森章太郎仮面ライダーのことだろうか? 幼稚園児の頃には熱心に「仮面ライダーブラックRX」を録画して鑑賞していた私も、流石に成人してからは何の興味もない作品である。子供が熱心に視聴していた「仮面ライダーW」を横から眺めて、最近の仮面ライダーは随分とスタイリッシュになったもんだなと「薄っぺらい」感想を懐くほどに教養の足りない男である。要約すれば、仮面ライダーに捧げられたオマージュがブギーポップに織り込まれていることを理解しない、気づかない人間は、首を吊って自殺しろということだろうか? バカバカしい。他にやらなければならないことが沢山あるのに、そんなつまらない理由で自殺などしていられる訳がない。

 shimomurayoshikoさんに関しては、コメントを拝見する限り、どうやら私がブギーポップから足を洗って「大人」になったような顔をして偉そうなことを書き殴り、作品を貶したことに随分と御立腹であるらしい。「まあ、こういう文章を書いている自分を“大人”だと思っているようなタイプには、確かに向かない作品だと思います」というのが、具体的にどういう意味なのか俄に量りかねるが、要するに「相性が悪い」ということで寛大に御容赦下さっているということだろうか。まあ、何はともあれ私は歴とした「大人」であり、「大人」でありたいと思っている。勤労の義務を果たして各種の税金を支払い、住宅ローンを組み、前妻との間に儲けた子供のために微々たる金を送り、これから生まれてくる現在の妻との子供のために必要な道具を買い揃え、養育の準備を進めている。そういう俗っぽい「大人」には、確かに「ブギーポップ」シリーズは相応しくないかもしれない。「『ペパーミントの魔術師だけは、成長してマンガやアニメを卒業した世間一般の社会人の鑑賞にも堪え得る』と言うから、オタ趣味から足洗って“大人”になった人なのかなと思ってたら、なろうで異世界ファンタジー書いてるじゃねえかぁああ!」とのことだが、私は未だかつて一度も自分を「オタク」だと思ったことはない。それとも「ブギーポップ」を読んだら人は直ちに「オタク」としてカテゴライズされるという暗黙の了解が、この国の津々浦々まで行き渡っているのだろうか。だとしたら、私は己の不明を恥じるのみである。私は要するに「ペパーミントの魔術師」は別格だということを言いたかったのであって、別に「オタク的な趣味から足を洗って大人になりました」と言った積りはない。無論、積りはなくてもそのように受け取られたのなら、それは私の責任である。私は単に社会に出て「大人」の責務を果たすべく努力を重ねてきただけである。

完全に“卒業”した大人であることをアピールしたいのか、自分が過去に好きだった作品に対して、子供だましだとか見え透いているとかいった表現を盛んに用いる人がいますが、他人の目を過剰に気にするそういう心の弱さこそが子供っぽく見えますね。好きだった作品を神格化するのと、逆に見えて近い心性 

 「他人の目を過剰に気にするそういう心の弱さ」ということであるが、寧ろ「他人の目を気にせず書いてしまった」結果として、このような反発を招いてしまったのではないかと思う。確かに、私は他人に「幼稚な人間」だとは思われたくないが、時には「子供っぽい側面」を垣間見せることで相手の鎧を脱がせるような小賢しい真似に走ることもある程度には「大人」である。救い難く時勢に遅れた私は、ツイッターというものを一切やらないので、プロフィールの見方などもよく分からないのだが、shimomurayoshikoさんは中学生なのだろうか? 仮にそうなのだとしたら、「大人」であることをアピールしたがる人間に反発するのも、子供っぽく見えるということが「批判」であるかのように語るのも、理解し難い現象ではない。思春期というものの症候だろう。大人になれば、他人は自分が思うほど自分に関心など寄せてくれないものだと、実感するようになる。だから私も、自分の書いた文章にこれほどの具体的な反発が寄せられて、却って驚いているくらいだ。「他人の目を過剰に気にするからこそ、こうやってブログで反論しているんだろう」と思われるだろうか。そうかもしれない。幾つになっても自己顕示欲という魔物は、そう簡単には消え失せてくれないものだ。だから、貴方もツイッターに夢中なんだろう?

 だが、これらの反論も、この記事の本題ではない。苟も自分の個人的な考えや感情に基づいて書き綴った「駄文」をウェブの大海へ晒している以上、ポジティブなコメントばかり望むのではなく、ネガティブなコメントにも耳を傾けるのが「筋」というものだろう。不快なコメントには耳を塞いで涼しい顔を保つのも一つの「叡智」だが、今回は敢えて積極的に反応することを選ばせて頂いた。自分の意見に寄せられた批判に対して、自分の意見を再び提示することは、面倒でも大切なことではないだろうか。所詮は自己満足に過ぎないが、そもそも自分自身の欲望のために書いているのだ。私も含めて殆どのSNSはマスターベーションのようなものに過ぎないだろう。

 mirunaさん、shimomurayoshikoさんのコメントに感謝する。今後もまた貴重な御意見を拝聴したいと思っている。

(2017/04/30 追記)

 shimomurayoshiko氏から、事実関係の訂正に関するコメントを頂戴した。当該ツイートの内容は、shimomurayoshiko氏自身の発言ではなく、srpgloveという方の発言の引用であるとのこと、ここに追記しておく。