サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「戦争の時代」の子供として生まれて 大江健三郎「死者の奢り」

 優れた作家であればあるほど、その社会的な名声が広範囲に行き渡っていればいるほど、毀誉褒貶の振幅が劇しくなるのは作家に限らず、あらゆる分野の「著名人」に付き纏う通弊である。だが、作家の場合には、その生み出した作品がそもそも「鑑賞されるもの」であるがゆえに、そうした賛否両論の嵐は一層深刻なものとならざるを得ない。日本人で二人目のノーベル文学賞作家として、或いは東大在学中に類稀な才能を発揮して易々と芥川賞を射止めて以来、長きに亘って日本の文学界に多大な影響力を発揮し続けている小説家として、大江健三郎に関する評価は囂しいほどに優劣の両極へ揺れ動いている。それは彼の書くものが、その繊弱で学者的な経歴とは裏腹の「野蛮さ」を含んでいるからだろう。良くも悪くも彼は既成の価値観の枠組みに囚われることのない、特異な思想の持ち主であり、その著作物は決して社会的に、公共的に是認された思想の形式ばかりを表しているとは言い難い。無論、その複雑な重層性にこそ、この作家の特権的な地位と栄光は花開いているのだ。

 大江健三郎の最初期の作品である「死者の奢り」という短篇小説もまた、そう簡単に読み解き得ない断片の強度に満ちている。描かれる主題は、これだけ「過激な刺激」というものが満ち濫れている現代の日本においては、それほどショッキングなものではない。屍体を移し替えるアルバイトという珍妙な設定に、作品の主眼を置いている訳ではないのだから、それは大した問題ではない。では、何に重きを置いて、この短い小説は書き綴られたのか? 改めて考えてみると、意外と答えは導き難いように感じられる。

 一読して感じられるのは、この作品もまた、あらゆる文学的営為がそうであるように、時代と社会の影響から自由ではないということだ。昭和三十二年に発表された「死者の奢り」には、明らかに「戦争」の残響が谺している。

 君は戦争の頃、まだ子供だったろう?

 成長し続けていたんだ。永い戦争の間、と僕は考えた。戦争の終ることが不幸な日常の唯一の希望であるような時期に成長してきた。そして、その希望の兆候の氾濫の中で窒息し、僕は死にそうだった。戦争が終り、その死体が大人の胃のような心の中で消化され、消化不能な固型物や粘液が排泄されたけれども、僕はその作業には参加しなかった。そして僕らには、とてもうやむやに希望が融けてしまったものだった。(『死者の奢り・飼育』新潮文庫 p.25)

  冒頭に掲げられる「濃褐色の液に浸って、腕を絡みあい、頭を押しつけあって、ぎっしり浮かび、また半ば沈みかかっている」死者たちの姿が、戦争によって失われた人命の残骸であることは明白である。余り理窟ばかり重んじるのは読者としての誠意に欠ける行為だろうが、敢えて自由に書かせてもらうなら、これらの「死者」が「戦争」と「戦争の終ることが不幸な日常の唯一の希望であるような時期」の残響のようなものとしてイメージされ、位置付けられていることも確かではないかと思う。この小説が書かれたのは昭和三十二年、戦争の記憶が或る生々しさを失って風化し始めるには適切な頃合いだろう。言い換えれば、これらの屍体を新しい水槽へ移し替えるという奇妙なアルバイトは、昭和二十年に敗北と占領という結末によって区切りをつけられた私たちの国の「戦争」をめぐる総ての記憶を、どうやって取り扱えばいいのか、という躊躇と徒労の感覚と底知れぬ深みにおいて結びついているように見えるのだ。

 それは過度に観念的な解釈であるかもしれない。だが、解釈が観念的であることが、真実からの離反を直ちに意味するとは限らない。この作品全体に漂う息苦しいような「徒労感」は恐らく、敗戦後の日本人が叩き込まれ、溺れ切っていた虚無的な感情の様態と関わり合っている。昭和六十年に生まれた呑気な私が、そのような感想を訳知り顔に文章として綴るのは、観念的な態度の最たるものだろう。しかし、それでも私は密かに思い、考えたことを、それが一般的な最適解から限りなく僻遠に隔てられたものであったとしても、不器用な言葉として書き留めておきたい。

 所謂「戦争」が甚しいほどに深刻な矛盾と不条理の巣窟であり、それが様々な欺瞞を人間の生活に投げ掛けるものであることは、歴史がありありと証明している。軍部の暴走という単純なスキームでは括り切れないほど、数多い「矛盾」が戦時中には発生し、恐ろしい速度で累積していただろう。その「戦争」の重層的な記憶が、日本人の意識に齎した影響の強度は計り知れない。だが、どんなに重要な記憶も「風化」という時間的な現象による支配から、永遠には自由ではいられない筈だ。私たちは日々、刻一刻と重要な出来事や切迫した感情を忘れていく。その忘却を積極的に推進するために、どんでん返しのように「火葬」という方針が発せられるのは、それが苦く忌まわしい記憶であればあるほど、止むを得ない政治的帰結なのだろう。

「事務室の手ちがいだ」と助教授が念を押すようにいった。「古い死体は全部、死体焼却場で火葬する事に定まっている。それは、医学部の教授会での正式な決定なんだ。君の仕事は、今日の昼の間に、死体を整理しておいて、焼却場のトラックに引渡す事だろう? 僕は、もうすっかり準備ができたと思って、この人達に来てもらったんだ」

 管理人は狼狽して蒼ざめていた。「そんな事いって、新しい水槽はどうするんです。掃除して、アルコール溶液を入れかえただけで、ほっておくんですか?」

「新しい死体を収容する事になっている。考えて見たまえ。使えなくなった古い死体をだよ、新しい水槽に、わざわざ移すなんて、意味がないじゃないか」(『死者の奢り・飼育』新潮文庫 pp.46-47)

 ここには「敗戦」を決定的な境目として、思想の全面的な「転回」を強いられた人々の当惑が露骨に浮き彫りにされていると言えないだろうか。それまで信奉してきた価値観が一瞬で叩き壊されて灰燼に帰し、全く新しいデモクラティックな自由主義が、八紘一宇軍国主義を追放して、政治の頂上へ舞い降りる。その目紛しい変転に眩暈を覚えるのは、人間の正常な反応であるに違いない。そのとき、人々が味わう「徒労感」は深刻なものだ。それが現代とは全く異なる意味での「政治不信」を招くのは不可避の成り行きである。

 坂口安吾は「堕落論」において「政治による救いなどは上皮だけの愚にもつかない物である」と述べた。敗戦後の混乱の中で、焼け野原から立ち上がろうとしていた時代の人々が背負っていた「徒労感」の中枢に「政治的なもの」への生々しいペシミズムが息衝いていたことは間違いないだろう。あれほどまでに熱烈に信奉されていた軍国主義が、夜明けと共に、ラジオから流れる玉音放送と共に、一瞬で裁かれるべき「危険思想」へと鞍替えしてしまったことの衝撃は、その分断の威力は、恐らく現代に生きる私たちの与り知らない強烈な経験であったに違いない。

「僕は今日、死体を新しい水槽に移す仕事をやったんですけど、事務室で最初、アルバイトの申込みをした時から、こんな話でしたよ」

「事務室が何をいったか知らないが、そんな仕事は、むだだろう? 今夜、死体焼却場へ運ぶという事は前から定まっていたんだ」

「でも、手ちがいは向うなんだから、報酬はきちんと、はらってくれるでしょうね」

「まるで必要のない仕事をしてかい?」と助教授は冷淡にいった。

「僕は知らないよ。管理人に聞いてみることだな」(『死者の奢り・飼育』新潮文庫 p.48)

  こうやって、不意にそっぽを向かれるように、それまで信じていたものの価値を一挙に否定されてしまった人々の深刻な精神的混乱さえ、今日では「必要悪」であったと前向きに見直されてしまうのだろうか。古い死体を水槽から取り出して、手荒くトラックへ積み込むように。「僕」の「膨れきった厚ぼったい感情」が見事に軽視され、記憶の彼方へ追い遣られてしまっていることは、現在の政権が推し進めつつある「改憲」の趨勢によって、露わに立証されているのかもしれない。

死者の奢り・飼育 (新潮文庫)

死者の奢り・飼育 (新潮文庫)