サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「田舎暮らし」への素朴な信仰について

 先日来、部下の一人が農業の勉強をやりたいと言って退職を願い出てきている。色々と話し合い、説得も試みたが意志が強固でどうにも覆りそうにない。話を聞いてみると、居候のような立場で月々五万円ほどの金を貰いながら住み込みで農家の仕事を手伝うらしい。どういう素性の受け容れ先なのか、実に心許ない限りで、搾取されるだけだから止めておけと口を酸っぱくして諭しても、向こうは頑として聞き容れようとしない。何でも「自給自足」の生活がしたいという方針らしく、凡そ就農という選択肢を一度も考えたことのない私には現実離れした野望のようにしか聞こえなかった(しかも本人は別に農家などやりたい訳ではなく、漠然と「自分で育てた作物を食べていきたい」ということらしい。生活費の算段など、まるで立っていないのだ)。

 その部下は新卒一年目も未だ卒えていない社会人の雛鳥なのだが、彼女に限らず、若い世代を中心に農業へ憧れる人は増加の傾向にあると聞いたことがある。明確な典拠を示せと言われても生憎何もないので、話半分に読んでもらいたいのだが、そういうエコロジカルな思想というのは年々、社会的な風潮として勢いを増しつつあるような印象がある。近代化の弊害として公害の問題が大きく叫ばれるようになって以来、環境保護のムーブメントは徐々に巨大な奔流へと膨張しつつある。自然との共生ということが崇高な理想として掲げられ、熱っぽく持て囃されるのは、確かに地球の資源が有限であり、破壊された環境を元の状態に復旧するのが著しく困難であることを鑑みれば、理に適った成り行きであるとも言い得るだろう。それは必ずしも若い世代には限らない。定年を迎えた社会人が田舎暮らしに憧れ、ごみごみとした息詰まるような都会の生活を捨てて、土いじりに血道を上げるという風な話も、世の中には有り触れているようだ。

 それ自体の是非を問うことは難しい。人の世にうんざりすれば、花鳥風月を愛でたくなるのが日本古来の風流な伝統であることは間違いない。隠遁と花鳥風月は昔から実に相性が良いものだ。自然との共生という大義名分が常に、そのような隠者のペシミズムと仲良く手を繋いでいるとまで強弁する積りは毛頭ないが、多かれ少なかれ、人間の拵えた人工的な社会への嫌悪が、エコロジカルな価値観の端々に混入していることは明白な事実ではないだろうか。

 だが、人間というのは本来、花鳥風月を愛でるものではない。いや、そもそも「花鳥風月」というもの自体、人間の美意識に即して加工された「人工的な自然」に他ならないのだ。本来の自然というのは、例えば宮崎駿監督の「もののけ姫」に登場する荒々しい「シシ神の森」のような、或いは「風の谷のナウシカ」に登場する毒々しい「腐海」のような、徹底して反人間的なシステムである。それ自体は、人間に重大な脅威を齎す。だからこそ、私たちの祖先は土木技術を発達させ、荒々しい自然の無慈悲な横暴を押さえつけるための地道な努力を営々と重ねてきたのである。古代文明の発祥した土地、つまりメソポタミアでもエジプトでもインドでも中国でも、民衆を束ねる覇王の重要な役割の一つは「治水」であり、大雨の度に決壊して人間の住まう土地を押し流す「河川の猛威」に抗うことが、人間にとっては切実な任務であり課題であったのだ。「農業」も同じことで、それは結局のところ「自然の暴虐」を抑制して、人間に都合の良いように操ることが主眼なのである。「自然との共生」という言い方も、煎じ詰めれば「生かしておいた方が都合がいい」からに過ぎない。もっと言えば、環境保護の崇高な理念を体現するためには何よりも「高度なテクノロジー」が一番に要請される筈である。エコロジーの思想も結局は「アーティファクトの極致」であることを避けられない。だとしたら、都市の空間に倦んだ人々が「田舎暮らし」に憧れ、里山の美しさに惚れ込み、大地と共に在ることに決定的な意義を見出したとしても、それは「程度の問題」に過ぎないということになる。

 阪神淡路大震災東日本大震災など、数多くの「震災」を経験し、その凄まじい破壊力に恐れ戦いてきた私たち日本人にとって、「自然」を共生すべき愛らしい対象であると看做すことは本来、噴飯物の欺瞞に過ぎない筈ではないか。「自然」への敬意や畏怖を墨守することと、「田舎暮らし」の幸福に素朴な希望を見出すこととの間には千里の径庭が存在する。その眩暈を覚えるような「断層」を気軽に踏み越えて、呪文のように「自然との共生」を讃美するのは滑稽な話だ。「都市化」に対する反動として現れる「農村化」への素朴な憧憬は、そのような「都市化」が何故推し進められてきたのか、という問題への認識を含まない限り、単なる反動に終始せざるを得ない。地縁と血縁によって結び付けられた緊密な共同体が必要だと、今になって本気で言うのだろうか? それは例えば、中上健次が苦しみ抜いたような「共同体」の問題を通過した上での「思想」、いわば「濾過された思想」なのだろうか。ここまで徹底的に社会化され、情報化され、都市化された私たちの「実存」が、素朴なエコロジーや花鳥風月の美学によって救済され得ると考えるのは、余りにも短絡的な発想ではないだろうか。

 私は断じて「農業」の重要性を軽んじている訳ではない。だが、土に触れ、自然のサイクルの中で生きることと不可分である筈の「農業」でさえ、今後は「都市化」の趨勢から身を躱すことは出来ないだろう。瑞々しい野菜でさえ、将来的には立派な「アーティファクト」として存在することになるだろうから。大地から切り離され、清潔な工場の密室でLEDの光を浴びて育った「野菜」の瑞々しさに何の罪があるだろう。そもそも、ナイルやインダスの時代からずっと「農業」は「アーティフィシャルな体系」として私たちの社会を支えてきたのだから。