サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「才能」という異常値 或いは「適職」という不毛な幻想

 先日、中上健次の「枯木灘」を無事に読了したので、新たに大岡昇平の「野火」に着手している。

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 暫くの間、中上健次固有の文体のリズムに浸かっていたので、「野火」を読み始めた途端に、がらりと変わった文章の構成を呑み込むのに少し難儀している。大岡昇平の文体に漲る、異様なまでの「明晰さへの執着」の感覚は、中上健次の呪詛とも歌声とも譬え得る奔放な音楽的文体の齎す感覚とは明らかに異質だ。同じように風景を描写するときでも、大岡が実に精密に、或る意味では科学的に風景の配置や関係性を言葉へ置き換えていくのとは対蹠的に、中上の文体は、汎神論的な祝福のオーラが先行していて、稠密な写実性は望み得ない。

 そこから「才能」という曖昧な観念の多様性について漠然と考え始めた訳だが、所謂「才能」というものに様々な形態が有り得ることはわざわざ改まって論じなくとも自明の話である。魚屋の才能と証券マンの才能、絵描きの才能と野球選手の才能は互いに異なっているのが当たり前で、勿論それが一つの社会的な労働である以上は、基本的な心構えや考え方の部分で普遍的に重なり合う要素も少なからず存在するだろうが、やはりそれらの「領野」の固有性というものは否み難い問題であろう。

 私の考えでは、「才能」というのは或る突出した異常値のことであり、反復的な適応の結果である。それ自体は単なる現象であり要素に過ぎないものが、特定の領野において卓越した重要性を帯びるというのが、恐らくは「才能」と呼ばれる特殊性の正体なのだ。だから「才能」というのは普遍化にも一般化にも抗うもので、所謂「教養課程」的な鍛錬とは無関係に発現し、作動する。仕事における段取りの組み方とか、学習の方法とか、同僚や上司、部下との信頼関係の築き方とか、そういった「教養課程」的な知識のように、「才能」は水平化することも共有することも出来ない。それは著しい固有性によって歪められ、「異形」の状態で存在しているものなのだ。

 言い換えれば、大多数の平凡な人間には「才能」などというものは備わっていない。就活の現場では「適性」という言葉が頻繁に用いられるが、「適性がある」ということと「才能がある」ということとの間には千里の径庭が横たわっている。中上健次大江健三郎の文章は、世間一般の規範から眺めるならば「悪文」であり、「正しい日本語」ではないと看做されるのが普通である。少なくともビジネス文書のような「古典的クリシェ」だけで構成された規範的な文章とは全く異質なベクトルに貫かれている。だが「才能」というのは本来そういう異形性を宿しているものなので、一般的な意味で「文章が上手だ」というのは「規範に適合している」という意味でしかなく、従ってそれは単なる「適性」の問題でしかない。そして「適性」というのは訓練や努力の積み重ねで幾らでも動かせるものだ。そこには「宿命的才能」に固有の「戦慄」など介在しない。「才能」は常に一回的な「個性」と分かち難く結びついており、その「個性」が「異常値」へ達したことの結果である。だが「適性」は「汎用性」の問題であり、予め示された結論への近接の度合いでしかない。算盤の得意な小学生の「適性」と、マイケル・ジョーダンのバスケットボール選手としての「才能」を同一の俎上に並べて論じてみても無益である。

 大岡昇平の作家としての「才能」が、「端正な日本語を書き綴る能力」によって担保されている訳ではないことは自明であろう。未だ「野火」を数ページ読み進めただけの段階で彼是と論じるのは軽率な態度だが、敢えて言わせてもらえば、その「才能」は「事実の克明な記録と報告」に対する執着という形で具現化している。それが彼の文章に比類無い明晰さを附与している。その「異様な明晰」は「規範的な日本語」に憧れるだけの熱心な修行者には真似することの不可能な「個性」によって支えられている。言い換えれば、真似することの不可能な「異常値」だけが人間の天賦の「才能」なのである。

 そう考えれば、就活市場において「天職」という奇怪な理念が持て囃され、夥しい数の学生がそのような「信仰」に振り回されている現実は、不毛であるとしか言いようがない。「適性」程度の問題ならば地道な努力で幾らでも覆せるのであり、そこに特別な「才能」など必要ない。ところが多くの若い人々は、「適性」を書き替えるための息苦しい努力よりも、一足飛びの栄光を約束してくれるような「才能」に浮気っぽく憧れてしまいがちだ。年数を経るに連れて、己の「才能の欠如」を生々しい現実として理解することは困難ではなくなっていくが、若い人々に固有のナルシシズム的な「特権的自己」への信頼は、そのような「幻滅」の苦痛を堪え忍べるほど厚顔ではない。人間の成熟が「自己の凡庸さ」の骨身に沁みるような自覚から始まるものであることは常識であると思うが、その「常識」を己の魂に刻み込むまでの間、所謂「若気の至り」と称される愚行の数々が世間を賑やかすのは、人類の生理的現象であり、自然過程であると言うべきだろう。

 だが「才能」というのは特殊な異常値の集積であり、それ自体は所謂「幸福」の観念とは実体的な関係を持たない。傑出した「才能」を持つということは、それなりの代償を当事者の心身に要求するもので、歴史に名を残す天才的人物の行状が往々にして、常軌を逸した悲劇性に彩られるのも、無理からぬ話なのだろう。寧ろ「幸福」という観念は凡庸極まりない私のような庶民にこそ相応しいものなのであり、それは「絶対的な才能」を得られず「相対的な適性」だけを手懸りにして、世間の荒波を掻き分けていくことを強いられた凡人の特権であるとも言い得るのだ。異形の宿命的才能を背負ったまま、良識的な範疇に収まるような「幸福」を享受することは難しい。常に「異常な才能」は「異常な悲劇」と隣接しているのである。そういった意味で、私は「相対的な適性」に振り回される「幸福な凡人」であることに、正負の符号を纏わせるのは蒙昧な議論であると信じて疑わない。