サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「売ること」と「書くこと」の接続(曖昧な思索)

 書くことは何のために行われるのか、という問いは極めて古く、射程も長い。その問いに対する答え方は、答える側の人間が何を重んじているか、或いはどのような視点と角度から、この問いに対峙するかによって、様々な「解」へ導かれることになる。例えば、書くことは「自己との対話」であるという定義を下せば、それは必ずしも他者の共感や理解を優先しない、幾分閉鎖的なニュアンスを帯びた回答であると看做される。或いは、書くことは「他者との共有」であり「意思疎通」であるという定義には、書かれた文字や、その文字に含まれた「思想」の内実が、相手に伝わることで初めて価値を得る、というニュアンスが含まれる。無論、前者のような構え方の場合でも、決して他者に理解されることへの拒絶を伴うと決まっている訳ではない。安易な理解を拒み、表層的な共感の遣り取りだけで本質的な対話を逸するような事態を避けようとする書き手も、理想的な理解者の登場に微塵も憧れない訳ではないだろう。

 これを経済の分野で用いられる「プロダクトアウト」と「マーケットイン」という言葉に置き換えて考えることも可能かもしれないが、それは退屈な児戯に過ぎない。作り手の信念と市場の支持を秤にかけて比べてみるのは世間の常識であり、二つの対極的な方向性を極端に分離させるのは、議論を袋小路へ追い込むだけの話である。しかし、社会環境が成熟し、物質的な豊かさが広範囲へ行き渡り(もちろん、総ての土地と階級に及んでいるとは言い難いが)、情報技術の発達で様々な「噂」が高速に飛び交う現代の日本社会で、つまりあらゆる物事が「加速」されていく環境の中で、プロダクトアウトもマーケットインも煎じ詰めれば同じことの二つの側面に過ぎない、いわば「方言」のような差異に過ぎないと看做すことも充分に可能だろう。だが、そうやって加速されていく社会の中で磨滅していくのは、「結果」に結びつかない「過程」は不毛であるという、或る種のプラグマティックな方法論に逆らうような「思想」の息遣いである。社会に認められず、受け容れられないものは、その送り手がどれだけ品質や価値に関して「確信」を持っていたとしても無意味である。この冷酷な断罪の判決文が、現代の社会では極めて凡庸な真理として崇められている。どれだけ知識と情熱を注ぎ込んだ商品であっても、消費者が首を縦に振って財布を開かない限りは価値を持ち得ない、という酷薄な真理に、貨幣という血液で総てが回っていく体質となってしまった私たちの社会が、説得力のある異質な原理を叩きつけることは限りなく不可能に等しい。

 誰でも御存じのように、商品は売れなければ単なる不良在庫であり、最終的には廃棄物へと堕落する運命を辿ってしまう。この身も蓋もない真実は、その商品の開発や製造に充てられた人々の労力の大きさや情熱の劇しさとは全く無関係に定められてしまうものだ。丹念に心を込めて作った商品が、常に相手の心を揺さ振るとは限らないのが世の中の摂理であり、それを痛いほど分かっているからこそ、万に一つの可能性を信じるために「真心を込めて作れば、きっといつか誰かに認めてもらえる筈だ」という理想主義的な信憑を無理にでも拵えなければならないのだ。だが、その「いつか」が訪れる前に寿命が尽きてしまう場合もあるだろう。文学の世界でも、生前は全く無名であったのに、歿後になって無暗と称揚され、高い声価を棺の中で誇るようになる事例は珍しくない。つまり、他人の「評価」というのは実に頼りない泡沫のようなもので、逆に言えば泡沫であるからこそ、時には爆発的な栄光へ人を連れ去ってしまうような事態も惹起される訳だ。物事の「価値」や他人の「評価」は絶えず曖昧に揺れ動き、片時も一つの水準に留まることがない。テレビを眺めていても、登場する人々の栄枯盛衰の劇しさ、その振幅の大きさは痛ましいほどである。マーケットイン的な考え方を後生大事に抱え込んで日々の仕事に打ち込むのも結構だが、その誠実さは容易く踏み躙られる虞と常時隣り合っている。

 評価が水物であり、売上が水物であることは、商売に携わる人間なら誰でも骨身に沁みる不動の「真理」として心得ているに違いない。言い換えれば、その「水物」の移ろいに振り回され一喜一憂を繰り返していたら、到底真っ当な仕事など営んでいけないのである。重要なのは冷静沈着なスタイル、売上という表層的な「現象」に心を掻き乱され動揺するのではなく、その深層に潜在する「構造」を静かに読み解いていく忍耐力であろう。いや、そんな精神論を語りたいのではなかった。私たちの労働の「成果」は、他人の「評価」によって容易く書き替えられ、危うく傾ぎ続けるのだから、それを行動の規範に選ぶのは止めておいた方がいい、ということである。

 しかし、私たちの労働の成果に「評価」を与える「他人」とは誰だろうか? 小売業の前線で働いていると、個々の顧客の「評価」の物差しというのが極めて多様であることに否が応でも視線を向けずにはいられない。彼ら一人一人の嗜好に合わせて、その都度専用の「商品」を提供するということは、余程狭い範囲の客層を相手にして商売を営まない限りは不可能である。だから最大公約数の「マス」という想像的な表象(殆ど数学記号のような抽象性を備えた「対象」としての)の性質と構造が問題になる訳だが、そこには具体的な「顔」がない。それは統計学的に析出される曖昧な「傾向性」のようなもので、そのような巨大な現象を規定することは個人や企業の努力が及ぶ範疇を遥かに超出している。結局、当たり前の話だが「評価」というのは他人の自由な裁量に委ねられるものであって、送り手の側がそれを思い通りに操ることなど出来ない。もっと原理的に考えれば、送り手の「陰謀」に見事に踊らされてしまうような「他人」の下す「評価」など紙屑ほどの意義も持たないだろう。それは結局「身内」に過ぎないからである。だが、重要なのは本来「時代」を超えることであり、歴史的な普遍性の名の下に「審判」を受けることだ。日本の極めてドメスティックな視覚文化(「浮世絵」から「アニメーション」に至るまで)の産物が、言語も生活様式も異なる外国の人々に熱烈な支持を受け、異例の絶賛を恣にするのも、結局は「他人」の遊動的な「評価」の帰結であるに過ぎず、その奇蹟を送り手の「力量」の功績と看做すのは表層的な分析であることに注意を示すべきであろう。