サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

受け継がれる生命(私的な備忘録)

 全くの私事なのだが、備忘録というか、思い出の記録として書き遺しておきたいことがある。誰の身にも降り掛かるという意味では平凡な出来事だが、その当事者にとっては極めて重要な意義を有する出来事が今日、起きたのである。

 2016年3月15日、娘が産まれた。夕方の17時36分、前駆陣痛が妻の体に取り憑いてから概ね40時間を閲した末に漸く、思ったよりも繊弱な産声を上げて、産道の息苦しい暗闇を脱出したのだ。麻酔を打って御産に臨む所謂「無痛分娩」を選択したのだが、それでも40時間近く子宮の収縮する痛みに堪え続ければ、麻酔で脳が感じなくても肉体の方では相当に深刻な負担であったに違いない。僅か十センチの子宮口から50センチ近い身長の嬰児が這い出してくること自体、冷静に考えれば極めて異常な事態だ。所謂「産みの苦しみ」という奴だが、分娩室へ入って懸命にいきんでいる妻の姿、その妻を励ましながら真剣な面差しで赤ん坊を引っ張り出す為に悪戦苦闘している助産師の方の姿を目の当たりにすると、言葉にすれば簡単な「産みの苦しみ」が生半可なものではないことが実感として魂に伝わってきた。麻酔を打って痛みを軽減していても、子宮の内部で育まれた「ヒト」の雛型を外の世界へ向かって押し出すのは並大抵の艱難ではない。無痛分娩を選ばず、妻が劇しい声で苦しんだり呻いたりしていたら、私はその壮烈な姿勢に打たれて嗚咽してしまったかも知れない。何れにせよ、母が子を産み落とすべく懸命に足掻いている真摯な横顔は限りなく美しい。それは殆ど「人間の尊厳」そのものであるとも言えるのだ。

 テレビやネットの報道に日々触れていると、痛ましく残虐な児童虐待のニュースが次から次に流れ、暗澹たる絶望と劇しい憤激のようなものが湧き上がってくる。覚悟の据わっていない両親が安易に子供を産み、きちんと育てられずに食事を与えなかったり陰湿で血腥い折檻を加えたりして、死なせてしまう事件は後を絶たない。その度に私は、責任の取れない親が子供を作るから、こういう救いようのない悲劇が勃発するのだ、だったら法律で妊娠出産を免許制にしてしまえばいいなどと、随分極端な意見を懐いてきた。子供を産むのは簡単だが、一人前に育て上げるのは容易なことではない。そのことを理解せずに、馬鹿げた情熱と軽率な思考に衝き動かされて子供を作るから、虐待へ発展してしまうのだと。そうした極論は、私自身が二十歳の時に付き合っていた女性を妊娠させ、それを契機に所帯を構えておきながら、五年半ほどで巧くいかなくなって投げ出してしまったという恥ずべき経験を有していることもあって、反動のように、強固に私の精神へ根を下ろしつつあったのだが、改めて分娩の現場に立ち会い、その壮絶な格闘のプロセスを見凝めてみると、そういう考え方は是正せねばならないと感じずにいられなかった。授かった生命を立派に育て上げるのは無論大変だが、産むこと自体も相当に大変で、体の弱い人なら堪え切れずに亡くなってしまうことも有り得る「命懸けの飛躍」なのだと、分娩台で戦い続ける妻の真剣な眼差しを見ながら痛感したのだ。産むことは難事で、その苦しみに堪え抜き、地上へ生命を無事に着陸させただけでも、その女性は社会的な賞賛を浴びる資格がある。そこには「人間の尊厳」が極めて明瞭な形で具現化されている。虐待に走る母親も、きっと子供を産み落とした瞬間には、譬えようのない喜びと幸せに充たされ、滾々と尽きることのない愛情を覚えていたに違いない。そのような「初心」が歳月の経過と共に磨滅し、兇暴な憎しみへと転化してしまったことは、悲しむべき惨劇であると同時に、峻厳に罰せられるべき罪悪でもあるだろう。だが、子供を「産む」という行為に挑み、それを成し遂げた崇高な功績まで、否定してしまうのは酷な話だ。きちんと育てられないなら産むべきではない、という理窟は、一見すると正義の威光を帯びた「良識」の所産であるように感じられる。しかし、そこには「産み落とした」という事実への素朴な敬意が欠けている。「産む」ことの問題と「育てる」ことの問題を切り分けて捉えなければ、恐らく虐待の問題が明るい方向へ改善していくことは有り得ない。それを常に組み合わせて、不可分の関係として縛り上げてしまうことが世間の通例となっているからこそ、望まれない妊娠をした高校生のカップルが、産まれた我が子をゴミのように遺棄して死なせてしまうような惨劇が起こるのだ。仮に育てる能力を欠いた親が存在したとしても、その人が「子供」を宿して無事に産み落とした事実の「尊厳」まで、纏めて否定してしまうのは余りに性急な断罪の方法である。「子供」は個人の財産ではなく、社会的な慈愛の対象なのだから、どうしても育てられないのなら殺したり虐げたりせず、せめて何らかの形で「生き延びるための枠組み」へ接続してあげられるように、世の中全体で合意を持つべきではないか。

 新生児室のベッドに横たわって、何かの練習のように繰り返し手足を動かし、瞼を開閉する娘の姿を見凝めながら、私は予定日通りに産まれて来た彼女の優等生ぶりに、一層愛しさを掻き立てられていた。どんな時代においても、親の願いの最たるものは「子供に一日でも長く生き延びてもらうこと」に尽きている。地上に生を受けたことに感謝する暇さえ与えられずに殺されていく子供たちの存在を思う時、私は私の幸福に感謝しながら、胸の奥で蠢動する名状し難い感情にも囚われている。無論、誰もが言行の一致した博愛主義者であることを、己自身に絶対の使命として課し続けられる訳はない。だが、幸福な子供の存在は、不幸な子供の存在と対を成しているのだ。この「幸福の偶然性」について考えるとき、慄然とした思いに心臓を抉られるのは、きっと私だけではないだろう。