サラダ坊主日記

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無神論者の供述 アルベール・カミュ「異邦人」に関する読書メモ 2

 アルベール・カミュの『異邦人』(新潮文庫)を読み終えたので感想を書き留めておく。

 この作品を論じるに当たって、所謂「不条理」という観念が手垢塗れになりながら今でも用いられ続けていることは一般的な事実である。だが、そのとき人は「不条理」という言葉を、どのような意味合いで受け止め、咀嚼しているのだろうか。単に自分の思い通りにいかない現実が厳然と存在する、という程度の話なら、わざわざ「不条理」という分かり難い観念を持ち出して彼是と議論を試みる必要はない。母親の葬儀で涙を流さず、服喪の期間であるというのに海水浴へ出掛け、女と情事の時間を持ったことで、犯した殺人への報いが極刑へと厳しさを跳ね上げられたことが、まさしく「不条理という運命」なのだと解釈したところで、この作品の本質的な主題に触れたことにはならないだろう。
 世の中の意見や見方はとりあえず脇へ除けておこう。私の考えでは、この作品の主題は「死ぬこと」と「生きること」の捉え方であり、尚且つその背景には、信心の類とは無縁な平均的日本人である私には巧く理解することの難しい「キリスト教」の風土が介在している。無論、だからと言って私はこの作品を、西洋に固有の風土へ縛り付けられたローカルな作品だと思い込みたい訳ではない。死刑を宣せられた後、語り手のムルソーは司祭との対話を繰り広げるが、その会話は最初から最後まで不幸な食い違いを演じ続ける。そこでムルソーが抱いている考えは、それほど特別なものではなく、現代では割合に普遍的な信仰の形であると言うべきだろう。要するに彼は「神」の存在しない世界で生きることに、己の倫理的な信念を捧げているのである。「神」という超越者や「死後の世界」という超越的な理念に縋ることを、彼は殆ど生理的な衝動に従って拒絶している。

 そのとき、なぜか知らないが、私の内部で何かが裂けた。私は大口をあけてどなり出し、彼をののしり、祈りなどするなといい、消えてなくならなければ焼き殺すぞ、といった。私は法衣の襟くびをつかんだ。喜びと怒りのいり混じったおののきとともに、彼に向かって、心の底をぶちまけた。君はまさに自信満々の様子だ。そうではないか。しかし、その信念のどれをとっても、女の髪の毛一本の重さにも値しない。君は死人のような生き方をしているから、自分が生きているということにさえ、自信がない。私はといえば、両手はからっぽのようだ。しかし、私は自信を持っている。自分について、すべてについて、君より強く、また、私の人生について、来たるべきあの死について。そうだ、私にはこれだけしかない。しかし、少なくとも、この真理が私を捕えていると同じだけ、私はこの真理をしっかり捕えている。私はかつて正しかったし、今もなお正しい。いつも、私は正しいのだ。私はこのように生きたが、また別な風にも生きられるだろう。私はこれをして、あれをしなかった。こんなことはしなかったが、別なことはした。そして、その後は? 私はまるで、あの瞬間、自分の正当さを証明されるあの夜明けを、ずうっと待ち続けていたようだった。(「異邦人」窪田啓作訳・新潮文庫

 この件を読んで私が咄嗟に思い浮かべたのは、武田泰淳の書いた「異形の者」という小説であった。どちらも「彼岸」の思想と「此岸」の思想との相剋を重要な主題の一つに掲げているからだ。だが、ムルソーに比べれば、「異形の者」の語り手はずっと錯綜した逡巡の中を蠢いている。それは彼が固より「僧形」の卵であり、その道へ進むために道場で修行の日々を送っている立場であるからだろう。彼の不徹底な躊躇と当惑は然し、最終的には「還俗」という「此岸」の結論へと到達している。彼が望むものは「地上」の歓びであり、「俗世」の快楽なのだ。そのような此岸的現実への劇しい欲望と情熱を生きることが、一つの現代的な倫理として称揚され、信奉されている。その意味で、カミュの「異邦人」も武田の「異形の者」も共に、人類の歴史と同じくらい古く長い伝統を積み重ねてきた「宗教」の体系への批判的な視座を共有していると看做すことが出来る。
 ここまで考えを推し進めたとき、私たちは再びカミュにおける「不条理」の概念を見つめ直すことになるだろう。何故なら「不条理」という観念が或る聖性を帯びて意図的に持ち出されるのは、それが「意味」と「条理」の元締である「神」と「宗教」の論理的体系に対する「抵抗」(或いはカミュ的な「反抗」)のポジションを指し示しているからなのだ。「私はあなたとともにいます。しかし、あなたの心は盲いているから、それがわからないのです。私はあなたのために祈りましょう」という司祭の言葉は、あらゆる現世の事象を「神」の名の下に回収してしまう彼岸的権力の典型的な症候に他ならない。だからこそ、この世界の現実には意味などない、つまり世の中の真実とは「不条理」であるという言明が、そのような彼岸的な理念による地上の「圧政」への「抵抗」に繋がり得るのだ。

 「しかし、あなたはじきに死なないとしても、遠い将来には死ななければならない。そのときには同じ問題がやって来るでしょう。この恐ろしい試練に、どうして近づいて行けるでしょうか?」現に、私が近づいているように、正確にそれに近づいて行けるだろう、と私は答えた。

 司祭の問い掛けに対する「私」の沈着な回答は、まさしく彼が「死」に何らかの重大な意味づけを施すことさえも拒絶するほどに、その精神を「不条理」という真実に陥入させていることの表れであると言い得るだろう。そして、ムルソーが生きているのは、そのような「不条理」への依拠を試みる人間を「異邦人」として断罪するような西洋キリスト教社会なのである。周りの人間と異質な考えを持つこと、それによって断罪されることの悲劇を、「異邦人」という小説は描いているのではない。彼が「異邦人」として立ち向かうのはもっと巨大な、いわば西洋の「精神」そのものである。天国も地獄も否定する彼の眼前に広がる索漠とした「不条理」の曠野は、多くの人々にとって唾棄すべきニヒリズムの極北に過ぎない。その極北を丸ごと肯定しようと企てたカミュムルソーの挑戦が、宗教的信仰の瓦解しつつある現代社会において普遍的な意義を獲得するのは当然の結果であり、尚且つそのような思想は、イスラム原理主義の横暴が蔓延しつつある政治的現状に関しても、有用な知見を齎さずにはおかないだろう。

異邦人 (新潮文庫)

異邦人 (新潮文庫)