サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「制御し得る暴力」という妄説について 1

 先ほどテレビのニュースを見るまで知らなかったが、昨年来、日本の政治と社会を揺さ振り続けてきた安全保障関連法案が本日、施行されたらしい。

 とはいえ、私はそれらの所謂「安保法」が具体的にどのような中身を持つものなのか、それが施行されることによって私たちの社会にいかなる変革が齎されるのか、精確な理解を有していない。新聞を読まず、テレビにもネットニュースにも余り眼を通さない歴然たる情報弱者(或いは「惰弱」と称すべきか)である私には、これほど世論を賑わしている重要な問題に関する知識が、恥ずかしいほどに欠如しているのである。

 それは結局、私がこれらの問題を「他人事」だと思い込んでいることの間接的な証左であり、大岡昇平の「野火」に描かれていたような、戦争における絶望的な窮迫(素朴な意味でのヒューマニズムの維持が不可能になる極限の窮迫)を「自分自身の問題」として受け止めるための理路を保持していないことの表れである。そんな私が、安保法の施行に関して何事かを論じる資格はない、いや、資格はあっても有意義な効用は何もないと言わざるを得ない。

 だが、そんな見え透いた謙遜を幾ら分厚く塗り重ねようとも、こうして記事を書き出した以上は、私は何かしらの見解をネットの大海原へ解き放ちたいと考えている、ということなのだ。テレビに映し出された国会前の大規模なデモの様子に、卑しい野次馬根性を煽られたからではない。私なりに拙くとも戦争を巡って考えてきたことの欠片は、意識の片隅に無造作ではあるが、一応は蓄積しているのだ。

 昨年来、テレビやネットには「集団的自衛権」という耳慣れない用語が飛び交っていた。要するに同盟国であるアメリカが外国から攻撃を受けた場合に、それを「自国が攻撃されたのと同義である」と解釈することで、自衛権の発動を可能にするという政治的な手続きである。それが世間の反発を食らい、安倍政権は糾弾され、一連の法案は「戦争法案」という不名誉なレッテルを貼りつけられた。無論、安保法制は決して「戦争の積極的な推進」を目的としたものではないだろう。世界中で紛争が起き、巨大な軍事力を保有するアメリカでさえ、アフガンとイラクの泥沼を収拾することが出来ず、シリアやパレスチナの壊滅的な無秩序も、一向に解決される見込みが乏しい情勢の中、日本が侵略戦争に踏み切る虞は限りなく小さいと看做すのが、妥当な推論である。だが、そうなってくると、何のために日本は集団的自衛権を選び取ったのか、ということが見え辛くなる。集団的自衛権は、日本の軍事力が、その規模と錬度に見合う正当な栄誉を諸外国から授かるために選択された一つの政治的な道筋ではない。つまり、その保有する軍事力を、国際的な威信の獲得に向けて活用することが趣意ではない。恐らくそれは、日米同盟における安全保障の「片務性」に対する是正という要素を含んでいるのではないかと思われる。

 太平洋戦争の後、日本はアメリカの占領統治下に置かれ、軍部は解体された。平和憲法が発布され、日本はアメリカの手で武装を解除され、軍事的に無力化された。敵国の「刀狩」を行なうのは占領する側にとっては当然の施策であるから、それ自体を彼是と論じても無益である。平和憲法はアメリカによって押し付けられたのだ、だから改定すべきだという性急な短見に対しても、慎重な対処が検討されるべきだろう。それによって獲得された利益の重さを、私たちの国家が「人道的な軍事力の行使」を偏愛することで得たかもしれない危険な利益と比較したとき、何れを稔り多きものと看做すかについては、厳格な精査が加えられるべきであるからだ。

 日本を軍事的に無力化したアメリカは、その必然的な代償として、日本の安全保障に関する責任を負うこととなった。何故なら日本は太平洋戦争の決着に基づいて、アメリカの「属国」となったからである。主権の回復後も、平和憲法という十字架(良い意味でも悪い意味でも、それは十字架と呼称するに相応しいものだ)を背負った私たちの祖国は、自衛以外の目的では交戦権を行使することの出来ないユニークな社会的体質を保持し続けてきた。その歴史的な事実は、アメリカの財政や軍事力や世論に巨大な負担を要求したに違いない。アメリカの超越的な軍事力(核戦力も含めて)によって庇護された日本は、自ら国防費を負担しないことで、経済的な復興と繁栄に注力し、素晴らしい利益を確保することに成功した。

 無論、アメリカも属国に対して一から十まで善良な寛容さを示し続けてきた訳ではない。朝鮮戦争の勃発に伴い、在日米軍の兵力を朝鮮半島へ移行させることになったアメリカは、日本に警察予備隊の創設を命じて、国内の治安維持(その対象は反米勢力であったに違いない)を肩代わりさせた。だが、自衛隊が国内の治安維持を請け負ってくれたとしても、対外的な安全保障に関しては米軍が全面的な負担を引き受け続ける状況に変わりはない。そのような「過大な負担」を、米軍が嫌ったとしても不思議ではないし、主権国家でありながら自国の防衛を自力で担おうとしない同盟国に嫌気が差すのは、人情としては理解し得るものである。

 安倍政権が「対米独立」という尊王攘夷的なメンタリティに支配されているのではない限り、集団的自衛権の承認には、しかも正規の憲法改正を踏まえることなく「解釈の見直し」という強引な荒業を用いてまで、その早急な成立を図ったということの背景には、恐らく「対米従属の強化」というニュアンスが含まれていると、私は考える。日米安保の片務性(日本の防衛をアメリカが引き受けているという片務性)を改善し、双務的な関係性への移行を図ることは、アメリカにとっては国防費の圧縮に寄与する素晴らしく健全な「合理化」であるだろうし、日本にとっては「自らの地位の向上」のように感じられる変化だろう。つまり、軍事的な意味で日米は「対等な伴侶」になったという訳だ。それがナルシスト的な錯覚に過ぎないと考えるのは、穿った見方だろうか?

 何れにせよ、集団的自衛権の承認が、日本を戦争へ導き易くすることは確かであり、最低限度の武力行使などと国内向けに説明したところで、例えばアメリカが中国やロシアから核弾頭を撃ち込まれて危機に瀕したとき、日本は「全力で」支援せずにいられるだろうか、ということは常に不安の種となる。集団的自衛権を認めてしまえば、私たちは自国の憲法を蔑ろにしてまで、同盟国の宿敵と砲火を交えることが可能になるし、そのような支援をアメリカの大統領(米軍の最高司令官であるところの大統領)から求められたとき、私たちは最早、それを拒絶するための根拠を持たない。何故なら、私たちは自分たちの決断で、平和憲法という重要な礎石を手放してしまったからだ。それがアメリカから押し付けられたものだとしても、私たちは平和憲法に便乗し、その条文を真摯且つ狡猾に活用することで、奇蹟的な復興と驚くべき近代的発展を成し遂げてきた。その巨大な利得を好んで抛棄し、自ら進んで憲法を捻じ曲げ、集団的自衛権の国内的な合意を成立させた卑屈な属国に、表向きの好意を示したとしても、アメリカという国家が肚の底で蓄える侮蔑の質量は決して小さくないだろう。ロシア、中国、朝鮮半島と、日本の周辺で地政学的な危険性が膨張していることは事実であり、米軍の負担が益々過重になりつつあることも事実で、その状況を踏まえて日米安保の双務的な改善が図られるのは少しも不自然な話ではない。だが、本当ならば私たちは、その「自然さ」に向かって積極的に抗うべきだったのではないか。実際、多くの人々が安保法制の成立を阻止すべく熱心なデモ行為に及んだが、それらの劇しい情熱は安保法制の廃案を為し得なかった。私たちの、いや「私」という個人の無関心が、その敗北の原因の一端を担っていることは、論理的には明白である。

 長くなったので、今日はこれで擱筆する。続きはまた後日書くこととする。