サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

結局のところ、人は誰かの言葉を真似るしかない(「オリジナリティ」という幻想)

 仕事を終えて眠る直前の僅かなひと時に、柄谷行人の「坂口安吾中上健次」(講談社文芸文庫)を漫然と拾い読みしていたら、次のような記述に出喰わした。

 この時、中上はもはや子の立場から過去を見ているのではない。自分のやっていることは、それまで嫌悪し否定していた実父を反復することではないのか。あるいは、反復以外に何も起こらないのではないのか。中上健次の「反復」の自覚はたぶんこの時点で生じている。この短篇を発表してまもなく、三〇歳の中上は『枯木灘』の連載をはじめた。とすれば、『枯木灘』がこのような「反復」の意識によって書かれたことは明瞭である。重要なのは、そのことが日本の近代文学の歴史にかんしても言えるということだ。(「三十歳、枯木灘へ」より引用)

 中上健次の「枯木灘」を巡って綴られた、この明晰で卓越した論考に私が触発されたのは、以前、下記のエントリーで「反復」という主題について雑文を草したことがあるからだ。

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 中上健次大岡昇平の作品から「反復」という観念を抽出して気儘に論じたものだが、久々に読み返した柄谷行人の評論に同じく「反復」に関する極めて犀利な省察を見出して、私は気が抜けた。誤解を避けるために先んじて告げておくが、本稿の目的は私の独創的な意見が柄谷行人の独創的な意見と重なり合ったことに態とらしく驚嘆してみせたり、己の眼力を声高に誇ってみたりすることではなく、寧ろその正反対である。初めて「坂口安吾中上健次」という書物を通読したのは既に随分昔のことであるから、私は自分の頭で考えている積りで言葉を書き連ねながら、実際には遠い日々に親しんだ書物の記憶を焼き直していたに過ぎなかった訳だ。

 要するに本稿は、私の慢心と虚栄の為ではなく、見苦しい自己弁護の為に綴られている文章なのである。自分の頭で編み出した創見のような積りで文章を認めながら、結局は他人の考想を半ば無意識に剽窃していたに過ぎない。だが、私は決して剽窃そのものについての弁明を試みている訳ではない。どんな人間も、どれほど独創的であると信じられている見解も、煎じ詰めれば他人の遺産に依拠せずには構築され得ないものなのだという至極当たり前の認識を、言い訳がましく語ろうとしているのである。

 赤ん坊が親の言葉を真似て喋ることを学ぶように、誰もが先人の模倣から、自らの独特な人生へ向かって歩き出す。それ自体は凡庸で平明な認識に過ぎないが、世の中には「個性」というものに異常な執着を示す人間が少なくない。思春期には誰しも「自分は特別な存在だ」という無根拠な信憑(それは単なる「視野狭窄」の産物に過ぎないのだが)に骨髄まで蝕まれてしまうものだが、長じた後も、そのような幻想を捨て去れずに後生大事に抱え込んでいる人は珍しくない。私だって同じ穴の貉で、口先では自分のことを「凡人」などと称していても、心のどこかでは自分の存在の特権性を薄らと信じているのだ。言い換えれば、これも「反復」ということに他ならない。

 『枯木灘』というテクストにおいて、この海と山に囲まれた土地は「世界」である。そこにおいて中上が問う事柄は、「不思議な家」や「路地」に限定された問題ではない。反復は、ひとが子供として生まれ成人として子供を作るということ、共同体がそれによって存続しているこの過程そのものにある。反復は生の残酷な特性なのだ。そこから出る道があるだろうか。(「三十歳、枯木灘へ」より引用)

 「反復は生の残酷な特性なのだ」という柄谷の認識は特別に目新しいものではなく、また単なる絶望的な諦観でもない。それは端的で厳粛な一つの「真実」であり、オリジナリティという観念に染まって己の特権性を信じ込もうとする哀れな愚か者を、極めて容易く一蹴してしまう。結局は何もかも同じことの繰り返しに過ぎないのではないか、という慨嘆に似た省察は、人が生きることに習熟すればするほど明瞭に感受される確固たる「真実」である。「イノベーション」という言葉が軽薄に持て囃される現代社会において、そのような「反復」の観念は唾棄すべき呪詛のように看做されるかも知れない。結婚や出産が個人の選択に依拠する時代に、「繁殖」の反復性を宿命のように受け止めるのは、余りにも古風な偏見だと嘲弄される行為かも知れない。だが、人間の条件は数千年が経っても大して変わっていないように思われる。

 終身雇用の崩壊と結び付けるのはいかにも浅薄な発想だが、今の世の中では「継続」よりも「変革」が重んじられる傾向にあり、地道な「反復」は「革命」を目指さない退嬰的な思想であると、露骨に見縊られている。だが、過去の枠組みを否定しさえすれば「反復」の果てしない輪廻から解放されると思うのは短慮に過ぎない。革新的であること、画期的であること、そのような号令自体が既に何千年も何万年も「反復」されてきた事象でしかないことは論を俟たない。言い換えれば、私たちは「オリジナリティ」という理念を極めて幻想的な形式でしか保有することが許されていないのだ。しかし「自分の言葉」だと信じ込んでいるものが「他人の言葉」に過ぎないということは、それほど悲しむべき事態だろうか? 少なくとも、自分の語っている言葉の「歴史的な規定」を自覚することは、愚かな幻影に踊らされる危険から、私たちの精神と存在を救い出してくれるだろう。総ては順列の組み合わせに過ぎない。しかし、だから何だと言うのだろう? 所詮は同じことの繰り返しに過ぎないとしても、この「私」の人生は一度しか演じられることのない悲喜劇なのだ。そのような「一回性」は、私の存在が或る「構造的な反復」の牢獄に囚われていることと無関係である。厳密な意味でのオリジナリティ=固有性は、他者との比較を通じて把握されるものではなく、その属性によって規定されるものでもない。「私」の固有性は、「私」の内容とは関わりを持っていない。つまり「オリジナリティ」とは、あくまでも「形式」であって「内容」ではないのである。自分の言葉が他人の受け売りでしかないという定言的な「現実」に、私たちが絶望する理由など何処にも存在しないのだ。

坂口安吾と中上健次 (講談社文芸文庫)

坂口安吾と中上健次 (講談社文芸文庫)