サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「ポイント社会」と、計数化される世界 伊藤計劃「虐殺器官」に関する読書メモ 2

 最近、牛歩並みの速度でのろのろと蛇行しながら読み進めている伊藤計劃の「虐殺器官」に、次のような文章が記されていた。

「『その頃、天下の人を戸籍に著かすべき詔令、カイザル・アウグストより出づ。この戸籍登録は、クレニオ、シリヤの総督たりし時に行はれし初のものなり』……知ってるかい」

「いいえ。聖書でしょうけれど」

 いまだ状況を把握できぬままルツィアがぼんやりと答えると、ルーシャスはぼくのほうを向いて、

「きみはどうかな」

「……ぼくは無宗教だ。教会に通ったことはない」

「ルカの第二章のド頭だよ。この頃から国民は計数されてたってわけさ」

「どういうことだ」

 ぼくは訊く。ルツィアは手首を縛られたぼくのほうを心配そうに見つめている。

「われわれは〈計数されざる者たち〉だ」

 ルーシャスはそう言って、銃を持った部下たちを見渡す。

「ぼくら〈計数されざる者たち〉は、この情報管理社会に生きる名なしの群れだ。高度セキュリティ社会の隙間をさすらうジプシーだよ」

 伊藤計劃の「虐殺器官」が、このような「計数」の問題を重要な主題の一つに選んで文字を列ねていることは明白である。あらゆるものが計数可能なデータに置換され、離散的な信号の集積として表現され、管理される社会は、近年の情報技術の異様な進展と増殖によって加速されているとはいえ、その志向性自体は、登場人物の一人であるルーシャスが語るように「聖書の時代」から、私たち人類の共同体を覆っている政治的な欲望である。計数という言葉は、一昔前の日本では「デジタル」の訳語として用いられていたもので、現在では余り一般的な表現とは言い難いが、却ってその生硬な翻訳の努力が、デジタルという観念の本質を抉っているようにも感じられる。

 今年の一月から、賛否両論の劇しく沸き立つ中で正式に船出したマイナンバー制度も、あらゆる国民を共通の基準に則って弾き出される番号と紐付けることで、管理の効率を上げようとする試みであり、まさしく「計数化」の象徴的な事例であると言える。そもそも「0」と「1」の二進法で総てのデータを生成し読解するコンピュータ技術も、究極の計数化と呼び得る訳で、その画期的な利便性と爆発的な処理能力の恩恵に与るべく、総ての事物が「計数化」のプロセスを経由して「情報」へ置き換えられていく、この抑え難い社会的な趨勢は、私たちの日常生活の隅々に早くも染み込んでしまっている。

 そうした趨勢が、人間の精神に及ぼす重大な影響に関して、楽観的な姿勢を決め込む訳にはいかない。「数値化されたものが最も分かり易い」という極端な思考法は今日、ビジネスの現場を筆頭に、殆どの公共的な領域において強大な支配力を発揮している。「虐殺器官」は、そのような計数化の志向性を、仮構された物語の時空で更に推し進めてみせた訳だが、そこで反動のようにジョン・ポールや〈計数されざる者たち〉といった抵抗勢力が登場するのは、筋書きとしては明快である。実際、新しいテクノロジーが覇権を握りつつある季節に、守旧的な反発を試みる人々の存在は常に絶えたことがない。だが、この「虐殺器官」が取り扱っている主題(無論、この作品の内容が単一の主題に集約されるという意味ではないので御注意願いたい)に関しては、それへの抵抗を単なる「反動」として定義するには未だ議論が成熟していないと私は思う。

 計数化によって物事を把握し、管理し、思考する。このような習性が、紀元前の時代から人類の生活に親密な関係を有していたことは歴史的に検証され得る事実である。そのような習性は、情報技術の発展によって爆発的な勢いで私たちの精神と存在を包囲し、高性能なコンピューターが一般に普及し、その強烈な計算力であらゆる事象を取り扱い、処理するようになって以来、私たちはその巨大な可能性に眩暈のような陶酔を覚え続けている。自動運転の技術も、人工知能の技術も、かつては科学的な色彩を附与された華麗な御伽噺の域を出ないものに過ぎなかったが、現代の発達した計算力は、それらの夢物語に具体的な根拠を与えつつある。そして、それらの先鋭的な技術領域において熱心に議論され追究されている問題の稀釈された様態が、私たちの日常的な思考回路を浸蝕しているのである。

 こうした計数化の進展は、私たちの社会における「貨幣の抽象化」にも通じていて、クレジットカードや電子マネーによる決済が着実に市民権を獲得しつつある今、所謂「お金」は古の物理的な実体性を減殺させている。無論、貨幣の本質がそもそも「抽象的な幻想」であることは確かな事実であるが、それが五感に訴えるような輪郭も手応えも失って、コンピュータに記憶された数列へ姿を変えてしまえば、そこには看過し難い「認識の変容」が附随せざるを得ない。鈍く光る黄銅の10円玉と、スイカの中に記録されたICチップ情報としての「10円」との間には、重大な隔絶が存在するのだ。私たちの欲望は、計数化への欲望が根深く増殖することによって、様々な局面でその性質を書き換えられている。所謂「ポイントサービス」も同様だ。マイレージやTポイントやら、様々な業種で消費の活性化や顧客情報の取得のために、ポイントカードのサービスが提供されている。ポイントを貯めることが快楽であるという感受性は、冷静に考えてみると異常な趣味で、極めて抽象的な欲望の介在を前提としている。要するに「計数化」への欲望である、という訳だが、それが総てを可算的なものに置き換えていくという根源的な志向性を土台として喚起されていることは確かであろう。

 何故、あらゆるものを「計数化」する欲望が人間の内部に宿り、社会全体を被覆してしまうのか。そこには、私たちの社会が「溶解」しつつあるという端的な事実が関与しているに違いない。成熟した社会では、金さえあれば誰にも頼らなくとも日常生活を営むことに支障がない。消費者としての底知れぬ幸福が、何時でも孤独な個人の生活に付け入る隙を狙っているからだ。ピザが食べたければ電話一本で宅配を頼むことが出来る時代に(「虐殺器官」の高度セキュリティ社会においても、宅配ピザという業態は廃れていないらしい)、古典的な家族主義に呪縛される必要はない。そうなれば、私たちは否が応でも「不特定多数」の群衆とならざるを得ないし、その「不特定多数」の群衆を管理するためには、合理的な「把握」の方法を発明する必要がある。

 言い換えれば、私たちは余りにも多くの「不明」に取り囲まれ過ぎているのだ。隣人の顔も名前も知らないことが普通であるような都市化社会に生きている私たちは、言葉や声だけでは物事を認識したり操作したりすることが出来ない。何故なら、それらは極めて親密で文脈依存的な媒体であるからだ。「顔も名前も知らない隣人」ばかりの世界では、最も分かり易いのは「数値」である。「数値」には歴史的な文脈や地理的な伝統を加味する必要のない、国際的な普遍性が附与されている。何もかも可算的なものに置換したがる欲望は、何もかも不透明で生々しく肉体的に把握することが出来ない社会の特質である。それは私たちの世界が、余りにも膨張し過ぎたことの不可避的な代償であるだろう。あらゆるものにポイントを付加して事足れりとするのは、それが誰にでも普遍的に適用し得る「サービス」であると信じられているからだ。それは顧客の属性に左右されないし、顧客の属性に応じてサービスの内容を調整する手間も要らない。そうやって「サービス」という歓待の営みを無個性な「ポイント」へ置換してしまう背景には、露骨な「計数化」への欲望が駆動している。何もかも算えられるようにしてしまえ。単なる数列に置換してしまえ。そうすれば、諸々の煩わしい問題は解決し、不確定の要素は払拭されるだろう。そういう近代的な信仰が、現代では社会の発展と幸福に寄与する重要な「ドライブ」として堂々と解き放たれているのだ。

 

虐殺器官 (ハヤカワ文庫JA)

虐殺器官 (ハヤカワ文庫JA)