サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「小説家」という特殊な実存の形態(ル=グウィンの随筆に導かれて)

 先日、アメリカの有名な小説家アーシュラ・K・ル=グウィンの随筆集(評論集?)である「夜の言葉」(岩波現代文庫)を読んでいたら、次のような文章と邂逅した。 

 ところで、ある小説作品中にミセス・ブラウンが存在するかしないかを測るのに、きわめて有効かつ単純なテスト法があります。その本を読んで一か月かそこらたったあと、人物の名を思いだせるか、というものです。ばかばかしいみたいですが、けっこう有効な方法です。たとえば、『自負と偏見』を読んだほとんどの読者が、エリザベスとダーシーの名を、おそらくは一か月よりずっとあとまで覚えているでしょう。ですが、ノーマン・メイラー氏の作品を読んで、そのなかのたったひとつの名も思いだせないとしても、その人の不名誉にはなりません。もとより、ひとつだけ例外はあります。ノーマン・メイラーという名です。なぜなら、メイラー氏の本は、ミセス・ブラウンについて書かれているのではなく、メイラー氏自身について書かれているのですから。メイラー氏はたしかに作家ではありますが、小説家とは申せません。(「SFとミセス・ブラウン」)

  ヴァージニア・ウルフの文章を導きの糸として紡ぎ出された、この優れた随筆に充満している犀利な省察の数々は、ル=グウィンという作家が凡百のファンタジー作家ではないことを雄弁に物語っている。無論、不朽の名作として知られる「ゲド戦記」を繙いてみるだけでも、彼女が極めて豊饒な才能に恵まれた書き手であることは如実に思い知らされるのだが、彼女は単に一人の優れた物語の創造者であるに留まらない。文章を書き綴ることを自らの生業(なりわい)として選び取り、その選び取った特殊な職業の構造に関して実に濃やかな思索を積み重ねてきたル=グウィンの主体的な履歴の成果が、得難い文学的滋味というものを含んでいることは、彼女の文章に触れたことのある人ならば誰しも認めざるを得ない真実ではないだろうか。

 さて、この文章を通じてル=グウィンは「小説家であること」或いは「小説という文学的形式」に備わっている重要な特質について丁寧な考究を推し進めている。彼女にとって「小説」とは何よりも先ず「人間」を描き出すものであり、その文学的な使命は「詩」とも「歴史」とも異なっている。言い換えれば、小説というものは壮大な叙事詩的物語のように「英雄」に就いて語ることが本分ではない。寧ろ、そのような元型的な「英雄」の観念を覆し、解体し、その観念の内側に腕尽くで包摂された、相互に矛盾し合う多彩な断片を、様々な角度から様々な口調で語り尽くすことこそ、小説というジャンルに課せられた特殊な任務なのだ。

 そのとき、小説家の眼差しは常に「他者」へ注がれていると言い得る。それは小説が本質的且つ原理的に「フィクション」であるということと切り離し難い問題である。言い換えれば、小説がどれほど卑近な事実に基づいて書かれていようとも、それが不可避的に「フィクション」として構築されるのは、そもそも小説が「他者」を綜合的に描出する為に発達してきた技法であるからなのだ。ル=グウィンが「作家」と「小説家」を区分しようと試みるのは、小説が何処までも「他者」を巡って組み立てられるべきものであって、自分自身に関する告白とは異質なものであることを世間に理解させる為であろう。自分自身に就いて語るときでも、それを一個の「他者」として切り離さない限り、つまりは「切断」しない限り、小説は小説そのものとして自立することが出来ない。小説家は、いわば他者に憑依することによって、極めて多面的で重層的な存在としての「人間」に就いて語るのであり、それは己の私的な思想や信条との間に「距離を置く」ということと同義である。自分も含めた世界の総てを「他者」として捉え直す眼差しだけが、小説という特殊な文学的形式=運動を可能にする唯一の条件なのだ。

 自分自身に就いて語るときでさえ、それを自分自身から「切断」しなければならないという小説家の不可避的な宿命は、必然的に「フィクション」の力学の導入を要請する。フィクションという一つの「言い訳」を、物語ることの前提的な条件として挿入しない限り、小説家の語りは直ちに「告白」の変奏へと転化してしまうだろう。だが、このような手順を踏んで創造される「小説」の特異な時空は、所謂「物語」の時空と同一ではないのか? こうした尤もな疑問には、小説における「人間」と物語における「人間」の違いに就いて思索を重ねることで報いるしかない。物語的な「人間」が、一つの象徴性であり、元型的なヴィジョンであるのに対し、小説的な「人間」は徹底的な分析と解体、そして包括と綜合によって表象される。こういう抽象的な言葉の遊びでは、何を言ったことにもならないが、微かにでも伝わらないだろうか? 物語に登場する、際立って明瞭な「性格」を備えた文字通りの「キャラクター」は、小説に登場する人々の固有性とは定義が異なっている。ミセス・ブラウンは、何らかの単一な象徴性には還元されることのない、不可解な他者としての奥行きを備えている。その奥行きを緻密に描き出し、読者に実感させる為には、壮大な叙事詩に見られるような神話的ヒロイズムを否定せねばならない。例えば田中芳樹の「銀河英雄伝説」は、一見すると壮大な叙事詩、英雄的な神話そのものに他ならない作品であるように感じられる。しかし、熱心な読者であれば漏れなく御存知であろう。あの作品の魅力は「英雄」の壮大な叙事詩的性格に存するのではなく、寧ろ、外形的に造り上げられたヒロイズムの表層の裏側に果てしなく広がる「人間」の重層性に由来するものであることを。田中芳樹の筆鋒は、決して誇大なヒロイズムへの情緒的な没入を許さず、絶えずその背後に潜んでいる卑近な「実情」を抉ってみせる。だからこそ「銀河英雄伝説」は、その大仰な表題とは裏腹に、ヒロイックな「物語」ではなく、リアルな「小説」として私たちの精神に濃密な影響を及ぼすのである。