サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

物語の快楽(あるいは、温故知新)

 物語は、本質的に無人称的な視野から語られ、表象される。それは特定の主観的な視野から、個人の責任に基づいて紡ぎ出されるのではなく、もっと自由で不可解な視点によって統制される対象である。物語には、便宜的な始まりと終わりが設けられるが、原理的には、物語というものには頭も尻尾もない。あくまでも叙述の都合上、もっと言えば紙幅が限られるという極めて唯物論的な理由の為に、部分が裁断され、摘出されるというだけの話だ。

 三人称客観のリアリズム、それは近代小説の特徴であるかのように思われているが、実際にはそれは小説に固有の本質などではない。寧ろ「小説」とわざわざ銘打たれる或る文学的様式の本質は、それが「特定の話者によって語られる」ということであり、その話者を具体的に明示することに存しているのだ。だが、具体的な話者を明示せず、或る不可解で超越的な視点から語られる一連の挿話は、神話的な時代から用いられてきた手法であり、寧ろ「近代」の特質に逆らうものである。

 視点という問題、これはあらゆる芸術の分野において重要な意義を有している。「それを語っているのは誰なのか」という問題は、例えば映画や絵画のような視覚的領野においては「誰が眺めているのか」「どこから眺めているのか」という問題に置き換えられる。そのように考えを推し進めていくと、映画というジャンルにおいては、絶えずカメラマンの視線が消去され、隠蔽されていることに思い当たるだろう。敢えて手ブレを取り込み、ロングショットで映し続けることで「誰かの視線の存在」を強く喚起するという手法も存在するが、それは映画の歴史においては限定的な手法である。多くの映画は、視点というものの存在を隠蔽している。それはフィクションが「虚構であること」を隠蔽することによって成り立つのと相同的な現象である。フィクションは、自らがフィクションであることを観客や聴衆に「忘却させる」ことで、彼らを虚構の世界へ拉致する。映画における視点の隠蔽も、同様の効果を齎すのである。

 だが、小説はそのような隠蔽を、暗黙の了解を、敢えて意図的に覆し、実際の構造を暴露することによって独特の芸術的価値を創成してきた。「物語の自意識」(©柄谷行人)としての「小説」は、全知全能の神という超越的な視点の介在を否定し、総てを人工的な作為として解剖することで、物語の神話的な崇高さを卑近な醜聞へと引き摺り下ろし、そのことによって「人間」の独立を実現したのである。無論、そのような「人間」の概念が近代的なものであるということは、既にそれが時代錯誤の観念へと変貌しつつあることの証左である。「意識の流れ」と呼ばれる一種の文学的な潮流は、明示された語り手のアイデンティティを精密に解剖し、神から人間へと縮減された語り手の単位を更に切り下げてしまった。その意味で、近代文学の終焉は既に成し遂げられている。物語が昔日の遺産ならば、小説もまた同様である。しかし、そのことは物語や小説が実体的な価値を持たない脱け殻に過ぎない、ということを意味する訳ではない。

 革新的な進歩の前では、旧時代の遺物はその価値を全面的に喪失するほかない、という進取的で直線的な歴史観は、温故知新のような考え方を否定するが、見捨てられた古いものを新しく蘇生させることの創造性は今日、極めて現代的な重要性を含んでいる。例えばクラブのDJたちは、様々な過去の楽曲をリミックスすることで新しい音楽の形態と現象を創造するが、それは「古いものの価値を認めない」という硬直した進歩主義者の手では成し遂げられることのない芸術的達成である。そもそも「古さ」と「新しさ」は相対的な概念であり、単線として想定された時間軸を信じない限りは、そのような区分に本質的な意義はない。重要なのは「異質性」を持ち込むことであり、その為に時差を利用したり、地理的な特性を活用したりするのはクリエイターにとっては自明で自然な手法である。

 温故知新という言葉は、古いものと新しいものの境界線が極めて遊動的なものであることを示している。古いものを知らなければ、新しいものについて語ることは出来ない。或いは、百年前に有り触れていたものも、現代に暮らす人間の眼には斬新な事物として映じる場合もあるだろう。だとしたら、物語と呼ばれるものの後進性を批判しても仕方ない。

 新しさを、直線的な進歩の結果として捉えるのは適切な判断ではない。重要なのは、様々なものを組み合わせる関係性の変化であり、それによって生じる「異質な手触り」なのだ。それは単に古びてしまった遺物の表面をリフォームすることではない。新しさとは、常に関係性の新しさとして定義されるべきであり、表層の真新しさは束の間の相対的な価値に過ぎない。それは時間の経過によって容易く失われてしまう虚しい目新しさなのだ。目新しさは、行き届いた清掃の美しさのようなもので、本質的には古びた遺物の単純な反復でしかない。重要なのは「関係を書き換えること」である。例えば小説というジャンルは、無人称的な「神々の物語」を、その関係性において書き換えることで「人間の物語」に変質させた。そのような革命的変化を単なる「進歩」や「発展」として定義するのは一面的な見方である。何故なら、小説家の努力によって生み出された「人間の物語」も時代の変遷の中で、容易く旧時代の遺産に変換されてしまうからだ。書き換えるという行為は、一度切りで完結することのない永続的な作業であり、それは単純な進歩ではなく、もっと複雑な冒険的跳躍のような行為として現れるのである。