サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

ナルシシズムとビジネス

 ナルシシズム、つまりは自己陶酔の心的機制は、傍目には極めて醜悪なものであり、多くの場合、それは人格的均衡の破綻若しくは未熟を意味するものとして受け止められる。無論、誰しも多少なりとも自己愛という感情を持ち合わせておかなければ、生きていくことは非常に困難になる。生きることは絶えず批判に晒されることであり、場合によってはその批判は全く的外れであったり、誤解と偏見に満ちていたりするものであるから、先ずは自分の力で自分自身を支えてやることは必要不可欠の作業である。しかし、それが他者の意見や考えを一方的に遮断し、排撃するようなものであるとすれば、穏健な自己愛とは呼び難い。自己愛は、他者の意見を全面的に排除することによって辛うじて成り立つようなものではなく、もっと毅然として余裕に満ちた感情の形態である。或る敵対者を想定して、その相手に常時挑みかかるような心構えで自分自身のプライドを維持しようと試みるのは健全な態度ではない。

 ナルシシズムというものが批判的な検討を加えられるべき論題と化すのは、正常な自己愛が何らかの屈折を抱え込み、他者の意見に耳を塞ごうとし始める場合である。自分に向けられた否定的な意見を全面的に押し潰し、その声を抹消させようとするヒステリックな努力は、ナルシシズムの典型的な症候であると言える。だが、他人の意見によって容易く瓦解するような自己愛というのはそもそも、自己愛ではないし、ナルシシズムに取り憑かれた人間は、その兇暴な感情的表現とは裏腹に決して頑迷でも強情でもなく、寧ろ人一倍、他人の批判に対して脆弱なのである。何故なら、ナルシシズムというのは自己愛の病変した形態などではなく、そもそも「自己愛の欠如」に基因しているからだ。自分自身が愛していないものを、自ら持て余して、そのままの状態で正当化する為に他人の客観的な評価を悉く踏み躙ろうとする精神の働きが、ナルシシズムの本質である。彼らが他者の批判的な見解に対して過敏な反応を示すのは、その深層心理において、彼ら自身が己に対する批判的な見解を有しているからであり、しかもその事実に眼を塞ごうとしているからである。

 ナルシストは自己愛の欠如を隠蔽し、否認する。彼らが他人の意見に穏当な方法で耳を傾けず、場合によっては感情的な反撃を試みてしまうのは、何より自己愛の欠如という本質的な問題を自力で解決する術を持たないからである。もっと言えば、ナルシストはその精神の全体を、他者の評価に依存している。彼らは自らの本心に基づいて自らを肯定するという独立した精神の働きを有していない。彼らは自己評価において自己を肯定するという独立した思考の働きを持っていない。彼らの自己評価は常に他者の評価によって支えられているのであり、他者の評価に対する全面的な依存が、あのファナティックな混乱を喚起するのだ。

 こうした論述に対しては、ナルシストは他人の意見に耳を傾けない人々の総称ではないのか、という疑問が投じられるかも知れない。確かに一般的な用語法としては、ナルシストとは自己愛の塊であり、他人が何と言おうと自分の審美的な基準に対する絶対的な信頼を手放さない人々を指す言葉であるように考えられている。だが、ナルシストは決して自分自身への正常で穏健な愛情を持つことが出来ない。他人に褒めてもらわないと自分を愛せない人々、それがナルシストの定義である。言い換えれば、彼らは自分自身の価値を信じていないのだ。自分では無価値であると考えている対象を、他人の賞賛に基づいて肯定するという現象はそれほど奇矯なものではないが、その対象が肝心の自分自身であるとするならば、幾分事情は錯綜してくる。誰かに褒められる為に、社会的な評価を得る為に、自己を生贄として捧げるような人々は例外なくナルシストであり、彼らは通貨のような社会的評価軸を与えられないと、己自身の価値を計測することさえ出来ないのである。

 但し、このような精神的構造は決して一部の限られた人々にだけ当て嵌まる現象という訳ではない。例えば現代のビジネスは悉く、マーケットの評価を絶対的な規範として崇めている。市場の評価、顧客の評価、株主の評価が絶対的な基準であり、それを獲得出来ない企業に存在する意義はないというのが、資本主義社会における冷徹な真理である。だが、顧客の評価を得られないことが存在意義の喪失に繋がるというのは、余りにも「結果」だけを重んじた解釈の形式である。顧客の評価が得られなければ、企業は死ななければならない、というのは無論、心理的な問題であるというより、経済的な問題であろう。そのような状況に強いられる形で、企業がCSの追求に走り、株価を吊り上げることに腐心し、マーケティングに血道を上げるのは自然な現象だが、或る現象が自然であるということと、それが望ましい現象であるということとの間には、大きな隔たり、或いは根本的な無関係さが介在している。顧客に評価されなければ金が入らない、それは端的な事実であり、あらゆる企業が収益の確保を存続の条件としている以上、顧客に対する媚態は避け難い営みであろう。だが、そうした構造的条件が私たちに強いる精神的負担の巨大さは、恐らく悲嘆すべき水準に達している。

 市場の評価を得られないという理由で退場するのならば、それは「自己の意志」の抛棄に他ならない。だから企業は「理念」というものを持ち出して、数値で表現されるマーケットのシビアな評価とは異なる領域に、自らの存続の根拠を設定しようと試みる。恐らく、目先の社会的評価だけを経営の目的に据えた企業は悉く廃業の憂き目に遭うだろう。絶えず完全な社会的評価を享受し続けることは不可能であり、本当に大事なのは不遇の季節にも堪え抜いて脚光を待ち続ける不屈の闘志を保つことであるからだ。それはナルシシズム的な精神にとっては堪え難い艱難である。誰からも評価されない場所で、何の報いも見返りも期待し得ない営為に情熱を注ぐことは、ナルシストの本質に背反する生き方である。彼らは眼に見える他人の賛嘆を浴びることでしか、自分の人生を保持することが出来ない。つまり、ナルシストと呼ばれる一群の人々に最も欠けているのは「信念」なのであり、彼らは自分自身の力では肯定し難いものを、他者の嘆賞に便乗することで肯定しようとする虚無的な習慣の虜囚なのである。