サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

組織の論理、個人の論理 映画「64」に関する覚書

 大雨の降り頻る月曜日の朝から、幕張新都心イオンシネマまで「64」の前篇と後篇を纏めて観覧する為に出掛けてきたので、作品の感想を書き留めておく。ネタバレを嫌う方は、作品の鑑賞後に読んで頂きたい。

 横山秀夫の硬質な警察小説を下敷きに作り上げられた「64」は、豪華極まりないキャスティングと、複雑に入り組んだ筋書き、半ば誇張とも言えるほど人間の嫌な部分を露悪的に抉り出す演出が相俟って、非常に重厚な映画に仕上がっている。端的に言って、傑作であると私は感じた。少なくとも胃が痛くなるような社会派の迫力が全篇に染み込んでいる。最近娘が産まれた私の個人的な立場としては、劈頭から幼女の誘拐殺人が無慈悲に描き出される辺り、到底他人事は思えない痛ましさであった。

 昭和64年に発生した陰惨な幼女誘拐殺人事件が間も無く時効を迎えようとしている中、群馬県警(原作では松本清張風に「D県警」と記されている)を舞台に、広報官の三上警視を主役に据えて紡ぎ出される物語は、大別して二つの主題を有しているように見える。一つは、不条理な暴力によって幼い娘を失った雨宮芳男に象徴される「癒されることの有り得ない悲憤」であり、もう一つは組織に属することが齎す「自己の毀損」である。この二つの要素が車の両輪の如く複雑に絡み合うことで、物語は異様な疾走感を伴いながら紡がれていく。広報室と記者クラブの確執、刑事部と警務部の確執、東京と地方の確執、父子の確執など、この作品の世界はあらゆる種類の「確執」に満ち溢れていて、見ているだけで息が詰まりそうになるが、それらの確執とどのように向き合うべきかという普遍的な主題に、佐藤浩市演じる三上警視が体当たりで取り組んでいくので、観客としてもそれほど容易く「確執」の連鎖に飽食する訳にはいかない。

 永瀬正敏演じる雨宮芳男の廃人めいた姿にも、観客の眼は釘付けにされてしまうだろう。冒頭から描き出される「娘を誘拐された男の切迫した憔悴」の光景が網膜に焼き付けられてしまう分、その後の雨宮の荒廃した人相や所作が悉く「理不尽な災厄への悲憤」の表れに見えて、居た堪れない感情を掻き立てられる。

 少女を殺したのは誰なのか、というミステリ的な興味が作品の中軸に据えられていることは間違いないが、犯人が誰なのかという暴露的な関心が、この「64」という壮絶な物語を支える本質的な要素であるとは言えない。重要なのは、相互に矛盾し合う要求や事情に板挟みになりながら、それらの多面的な試練に向き合って足掻き続ける三上の姿であり、醜さや脆さも含めてそれを体現し続ける佐藤浩市の迫真の演技である。彼の格闘と懊悩を媒介として、カメラは衝突し合う人々の銘々の思惑を切り取り、観客の鼻先に突きつけ続ける。だからと言って、監督以下の制作陣は決して三上を英雄として扱わず、彼の勇敢な行動を盲目的に褒め称えるような描き方はしない。物語が結末へ辿り着いた後も、観客の胸底に残されるのは遣る瀬ない切なさであり、自首すると決意した雨宮の寡黙な後姿だけである。名状し難い感情、誰が正しく誰が間違っているとも言い切れない、整理のつかない心境だけが、この映画から観客に手渡される贈り物なのだ。その絶望的とも言い得る徹底したリアリズムが、安手の感傷の代わりに、シビアな現実に根差したリアルな希望を生み出す。三上は救われただろうか? 雨宮は怨念を晴らせただろうか? だが、三上の娘は帰還しないし、雨宮の娘は十四年前に殺されたままだ。あれほどの複雑な苦闘を閲した後でも、本質的な問題が解決されることはない。だが、それほど癒し難い苦悩の泥濘に埋もれながらでも、とりあえず人間は死なずに生き続けることが出来るし、自分の意志と決断に基づいて人生の方針を定めることが出来る。それがリアルな希望という言葉の意味である。

 一般人に暴行を働いた警察官として新聞記事に取り上げられてしまった三上の立場は、その後ロクヨンの真相が綜合的に解明されたとしても、充分な名誉回復の措置に与れるとは思えない。だが、それは総て覚悟の上であっただろう。私が何よりも共感したのは、この世界には百パーセントの善人も悪人も存在しないという摂理が、物語の基幹に据えられている点である。三上の奮闘は、例えば雨宮や幸田にとっては紛れもなく活躍であり、善行であろうが、例えば警務部長の赤間や刑事部長の荒木田にとっては迷惑極まりない余計な仕事であったに違いない。彼らは64の被害者の無念が晴れることよりも、己の権威や威信を保つことの方に主要な関心を寄せているからだ。その意味で、三上警視の蛮勇は必ずしも世間の賞賛を浴びるとは限らない博打である。それでも三上は己の信念に基づいて報われることの少ない職務に全身全霊を捧げ、自らの地位を擲ってでも戦い抜いた。それを一概に正義や善行といった言葉で飾り立てることは出来ない。しかし、そのような蛮勇は少なからず私の魂に力強い励ましを与えてくれる。権力を備えた高位の人間の見解だけが正義の称号を独占するのは、現実の社会においては紛れもない欺瞞である。誰しも何らかの社会的な関係性の内部で、色々な事情を勘案しながら生き延びていくことを強いられていくのだから、三上警視の辿った経験は決して他人事ではないし、スクリーンの中だけに存在する理想的な絵空事でもないのだ。私たちは苛酷な試練を免かれたまま、自らの生涯を卒えることは許されない。その意味で、この「64」という映画が訴えかける主題の普遍性は疑うことも投げ出すことも出来ないものであると、私は信じる。