サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

外部を持たない領域 大江健三郎「他人の足」

 最近、再び読み始めたミラン・クンデラの「存在の耐えられない軽さ」について何か書こうと思ったのだが、巧く纏められないので別の書物を巡って雑文を草してみたいと思う。断章風の文章を積み重ねて織り成されるクンデラの小説は、分かり易いカタルシスや劇的なシナリオとは無縁で、作品の意図を掴むのが容易ではない。しかし、それでも読み出すと不思議にページを捲らされてしまうのが魅力と言えば魅力だろう。

 「存在の耐えられない軽さ」は絶えず性愛の問題を巡って綴られているが、だからと言って性愛そのものを主題に据えたロマンティックな恋愛小説だと誤解し得るような余地はない。物語の進行、筋書きそのものの進行ではなく、小説としての構造的な進行は通り一遍の写実主義を排除していて、どんな描写にも観念的な省察や解説が絡まり、混入するのが、クンデラの文学的特徴だろう。彼は決して物語のシンフォニックな高まりを描こうとはしないし、滑らかでリアルな描写への拘りも示さない。彼は絶えず特定の主題に就いて周到な抽象的思索を張り巡らせ、その軌跡を執拗に言葉へ置き換え続ける。無論、それはクンデラの文学に関してだけ指摘され得る特質ではない。例えば我が国でも、大江健三郎の小説には回りくどく迂遠な思索の蓄積が、肥大した肝臓の如く埋め込まれている。性愛という主題も、特に若き日の大江にとっては重要な対象であったようだ。

 昭和三十二年に発表された大江健三郎の初期の短篇小説「他人の足」は、次のような観念的述懐によって書き出されている。

 僕らは、粘液質の厚い壁の中に、おとなしく暮らしていた。僕らの生活は、外部から完全に遮断されてい、不思議な監禁状態にいたのに、決して僕らは、脱走を企てたり、外部の情報を聞きこむことに熱中したりしなかった。僕らには外部がなかったのだといっていい。壁の中で、充実して、陽気に暮らしていた。(「他人の足」『死者の奢り・飼育』新潮文庫 p.56)

 初期の作者が執拗に追究し続けた「監禁と脱走」という主題、或いは「脱走の不可能性」という主題を、冒頭から露骨に明示し、態とらしく説明してみせる臆面もない語り口は、大江健三郎という作家が具体的な事実よりも或る抽象的な「観念」に基づいて筆を執るタイプの人間であることを物語っていると言えよう。クンデラが「存在の耐えられない軽さ」を、永劫回帰というニーチェの哲学的概念から語り始めたように、大江は「他人の足」を「監禁」という主題の明示によって語り始める。彼らは、単なる派手なアクションや息詰まるようなサスペンスを架空の人物に演じさせようと試みる凡百の小説家たちと根源的に異質な野心に犯されているのだ。彼らにとって「小説」は特定の主題を厳密且つ精緻に追究し解剖する為の得難い媒体である。一般的な喜怒哀楽の感受、カタルシスの享受などは、彼らが小説に対して要求する特殊な役割とは縁遠いものなのだ。

 「死者の奢り」「飼育」「芽むしり仔撃ち」といった初期の大江の文業に共通する重大で個人的な主題が「監禁」であることは論を俟たない。彼は常に「監禁」の不可避性と「脱走」の不可能性を巡って何度も観念的な想像を反復してきた。「死者の奢り」では不可解な社会の機構に組み込まれて身動きの取れなくなった青年の徒労が描かれ、「飼育」では文字通り米兵と思しき黒人の「監禁」を巡って詳細な描写が積み重ねられ、「芽むしり仔撃ち」では疫病の蔓延する山村に幽閉された感化院の少年たちの姿が克明に写し取られた。大江が一貫して持ち続けている生得的とも言える理念は「監禁」であり、しかもそれは常に苦痛を齎すものであるとは限らない。「死者の奢り」では学生の徒労として形象化された問題が、「他人の足」においては病人の虚無的な快楽として構成されていることを見れば、大江の欲望が「監禁からの解放」への純粋な正攻法に律せられていたと考えることには無理が生じるだろう。彼と「監禁」との関係性は両義的で輪郭の定まらない矛盾を多量に含んでいる。

 脊椎カリエス患者の療養所を舞台に選んで綴られる「他人の足」の物語は、冒頭の段落が控えめな暗示の代わりに堂々と宣言してみせているように、「外部の不在」という主題によって全篇を支配されている。外部が存在しない、いや存在したとしても強力な価値を持たないような「監禁」状態が、大江健三郎の文学においては本質的な役割を担っているように見える。それは「外部」が存在しないというよりも、「外部」の価値や実態を生々しく感受し、相互的な働きかけの対象として捉えられないような奇妙な「不全」の感覚を表している。そうした「軟禁」とも呼び得る生存の様態は、どこから生まれて来たのだろうか?

 戦争だって? と僕は驚いていった。僕らは、そんなものに関係ないぜ。

 関係がないなんて、と学生も驚いた声を出した。僕と同じ世代の青年が、そんなことをいうなんて考えてもみなかった。

 この男は外部から来たんだ、粘液質の厚い壁の外部から、と僕は思った。そして、躰の周りに外部の空気をしっかり纏いつかせている。

 僕は、この姿勢のままで何十年か生きるんだ、そして死ぬ、と僕はいった。僕の掌に、銃を押しつける奴はいないさ。戦争は、フットボールをできる青年たちの仕事だ。(「他人の足」『死者の奢り・飼育』新潮文庫 p.61)

 露骨なまでに無気力であると評し得る「僕」の素直な述懐は、彼が落ち込んでいる閉鎖的な状態の絶望的な堅牢さを証している。こうした感覚は決して珍しいものではない。有り触れた絶望の形式であると言い得る。自分の力の及ばない外界と関わり合っても意味がない、という単純な絶望の形態は、寧ろ「軟禁」されている状態への奇妙な自足を齎すだろう。「引きこもり」と呼ばれる生存の形式の基底に存在するのも、こうした徒労の感覚なのではないだろうか。そこでは、外部の「現実」へ通じる回路の実在が信頼されていない。「粘液質の厚い壁」の絶対性が「僕」の精神を抑圧し、社会的な「不能」の状況へ縛り付けているからだ。だが、微かな希望が存在しない訳ではない。その微かな希望を抑圧しなければ自分自身の精神を保ち得ないほど、絶望の濃度が深刻な水準に達していることは事実であるとしても。

 僕を清潔にしておきたいんだろう?

 え? と看護婦がいった。

 下着を汚されたくないんだろう?

 看護婦は当惑して僕を見つめてい、それから猥雑さと優しさの交った表情に変った。

 わかったわ、と少し息を弾ませて看護婦はいった。わかったわ。近頃、皆少し変だったじゃない? 私そう思っていたのよ。

 初めに、乾いて冷たい掌が、荒あらしく触れた。看護婦は満足そうに繰返していた。

 なんだか変だったわよ、近頃ずっと。(「他人の足」『死者の奢り・飼育』新潮文庫 p.78)

 このザラリと冷え切った感触の終幕には、寒気のするような滑稽さが含有されている。結局は誰も軟禁状態から解放され得ないのだろうか? いや精確には、解放されることのない自分自身を保持する為に、こうして開き直ったようなペシミズムが肯定されるのだ。大江健三郎は徒労に満ちた溜息と共に、この作品を書いたのだろうが、その反動として現れた度し難い「現実」への憧憬が、後年の彼の旺盛な政治的=社会的活動の礎石を築いたのではないかと、私は思う。

死者の奢り・飼育 (新潮文庫)

死者の奢り・飼育 (新潮文庫)