サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

路傍の酔漢

 つい二週間ほど前の夜の話だ。私は勤め先の東京支社で日がな一日会議に明け暮れ、すっかり草臥れた体を引き摺って総武線幕張駅へ辿り着いた。蒸し暑い夜だった。

 家路を辿る途中に、昔ながらの酒屋があって、その脇に煙草の自動販売機と灰皿が置いてある。仕事の帰りがけにいつも、そこで一服するのが、幕張へ越して以来の私のささやかな日課である。

 いつものように歩いていたら、前方から奇妙な声が聞こえる。ふと顔を上げたものの、向かいから来るのは自転車に乗ってイヤホンで音楽を聴いている、茶髪で眼鏡の若い兄ちゃんで、特に奇声を発しているようにも見えない。何だろうかと思いながら、そのまま直進していくと、足元に変なものが転がっていた。爺さんである。

 爺さんは硬いアスファルトの上に背筋を伸ばして毛筆のようにまっすぐ寝そべり、天を仰ぎながら何かをぶつぶつと唸っている。おおかた酔っ払いだろうと、私はそのまま通り過ぎて、前述した灰皿の傍でキャスターマイルドに火を点けた。

 本当はそのまま帰る積りだったのだが、冷静に考えてみると、あの爺さんが酔っ払いであるという確証はない。もしかしたら、具合が悪いのだろうか。そう思いながら、煙草をくわえて爺さんの方を眺めていると、自転車に乗った女性が通りかかって、爺さんに眼を留めて立ち止まった。思案している様子である。私は観念した。居合わせた以上、このまま無視して帰るのも心苦しい、という気分になってきたのである。

 私とその女性は爺さんに近づき、恐る恐る声を掛けた。屈み込んで声を掛けると、濃密な酒精の臭いが鼻を衝いた。やはり飲んだくれなのだ。意識はあるらしく、話しかければ縺れた舌で返事をする。女性が何時から呑み始めたのかと尋ねると、爺さんは「五時」と答えた。既に腕時計の文字盤は十時を回っている。やはり飲んだくれである。

 頭を打っているかもしれないので、容易に動かせない。女性は駅前の交番へ警官を呼びに行った。その間、私は留守を預かることになった。仕方無く、爺さんの意識を保つために色々と質問を投げかける。どうやら爺さんは独居老人らしく、家には誰もいないという。やがて女性が帰って来て、交番は留守だったから電話して呼んだ、警官はもう直ぐ来るだろうと言った。

 警官が来るのを待つ間、爺さんは何でこんな硬いところに寝てなきゃなんねえんだと文句を言い始めた。自業自得であるが、仕方あるまい。よく確かめてみると、後ろ頭を切ったのか、アスファルトに血痕が浮いている。警察が助けに来るから大人しく待っていろと言うと、俺だって警官だ、警官が何で警官を呼ばなきゃなんねえんだと言い出した。だって貴方、現役じゃないでしょう、と尋ねると、爺さんは涼しい顔で、俺は何年も前に定年で辞めたと答えた。そんなことは、教えてもらわずとも一目瞭然であった。

 爺さんの倒れている直ぐ傍には、小奇麗な赤色の自転車が止めてあった。暇を持て余した女性が、その自転車に不審な点を発見した。後ろの籠に紙袋が入っていて、剥き出しのブラジャーが覗いていたのである。女性は眉を顰め、爺さんに尋ねた。おじいちゃん、大丈夫? ブラジャーが籠に入ってるけど、大丈夫? 女性の尋ね方は、巧みであった。遠回しだが、直球だ。贈り物には見えない。だが、盗んできたのか? どこで?

 やがて通りかかった若い茶髪の会社員の男性が、爺さんの麺棒のような寝そべり方に危機感を覚えたのか、救急車を呼びましょうと言い出した。そして携帯で電話を掛け始めたところへ、太った警察官が汗ばみながらやってきて、後は引き受けますと言った。爺さんに御家族は? と尋ねるので、私が先刻の事情聴取の成果を基に、爺さんが独居老人であることを告げた。警官は困り顔で、一人だっていったって誰かに迎えに来てもらわなきゃしょうがないでしょう、頭を打ってるんだからと言った。正論だが、独居老人なのだから、誰も迎えに来ないことは確実である。しかも、爺さんの自転車の籠には、爺さんのものとは思えないブラジャーが入っているのである。誰が彼の身元を引き受けたがるだろうか? 女性は自転車の籠の中の真新しいブラジャーに就いて、警官に注意を促した。後から駆け付けた眼鏡の若い男性警官は、冷ややかな表情で籠の中を確かめた。罪のない酔っ払いの爺さんに、飲み過ぎ以上の嫌疑がオフィシャルに掛けられたのである。

 警察がもう大丈夫だと言うので、我々三人はそれぞれの家路に戻った。爺さんが単なる酔っ払いだったのか、酔っ払った泥棒だったのか、生憎知る由もないのが残念である。