サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

圧倒的な現実の渦中で忘れ去られるフィクション、或いはその変質

 目の前の現実が余りに苛酷で、圧倒的なものである限り、人間の宿している内なるフィクションは窒息し、息絶えてしまう。

 様々な物語、様々な空想、それらは現実との間に切り拓かれた距離の効果によって生まれるのであり、従って主観と現実との不可分な近さが余りに強調される場面では、そうした非現実的な現象が生起する余地は否応なしに限られてしまう。そうやって私たちは、圧倒的な現実の濁流に飲み込まれ、自由な想像力を奪われ、結果的に自分という存在の輪郭さえ掴めない窮境に追い込まれる。

 無論、そうした圧倒的な現実から逃れる為に、完全なる妄想の世界へ移動する人々も少なからず存在していて、彼らは現実に対する全面的な否認の強度と比例するように、想像的な世界の奥地へ探検隊のように分け入ってしまう。彼らは知らぬ間に退路を断ち切る。退路を残しておけば、そこから圧倒的な現実の濁流が再び雪崩を打って押し寄せる虞があるからだ。そうやって彼らは帰り道を見失い、過剰に肥大した妄想の閉域でブクブクと肥えていく。そこには自由など存在しない。単なる精神的な袋小路の閉鎖性の中で、ゆっくりと木乃伊に変わり果て、やがて即身成仏を遂げるだけの話で、そこに本質的な救済は降臨しない。

 だが、フィクションを持ち得ないことも、フィクションしか持ち得ないことも、共に不幸な人間の末路である点においては共通している。重要なのは、現実との距離を状況に応じて可変的に調整し得ることであり、それが本来の精神的機能というものなのだ。或いは端的に、「知性」と呼んでも差支ない。知性は、現実との距離を、或いは現実を切り取る視点の角度や次元を、様々なレヴェルに切り替えていくことで、現実と自我との健全な関係性を保つのだ。そうしたホメオスタシスが、私たちの精神に宿っている事実を軽視すべきではないし、閑却すべきでもない。

 現実というのは本来圧倒的なもので、私たちの存在を根源的に規定する強固な力であり、秩序であり、関係性である。その影響を完全に免かれることは不可能であるが、そこに「距離」を持ち込む工夫は、少なくとも私たちの掌中に収められた重要な権利であり、能力である。フィクションが痩せ細るとき、或いは過度に肥満するとき、私たちは可変的な関係を失うことで、精神的に耗弱を強いられる。そうやって私たちは生きることに失敗し、幸福を得ることに失敗していく。鍵を握るのは知性であり、妄想であり、ユーモアである。圧倒的な現実に従属することだけが、生きることの本質ではない。