サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(書き手の論理・保坂和志のコンセプト・分業社会への苛立ちと警鐘)

保坂和志という作家は、様々な文章を通じて、小説を完成された外在的な対象として取り扱う評論家的な態度を批判している。彼のコンセプトは、小説という文学的営為を「書き手の側に取り戻すこと」である。何故、書き手の側に取り戻さなければならないのか、ということは、彼が作家であるからという他にも理由があるのだろう。私見では、その理由の一つは或る作品を「完成された外在的な対象」として看做す態度が、作品に対する根本的な誤解を惹起してしまうからではないかと思う。

 出来上がったものは、それが出来上がるまでの工程を明瞭には示さない。鑢の痕が分からないように鑢を掛けるのが、物事を仕上げることの本義であって、完成に至るまでのプロセスが露骨な形で消え残っているのは、完成された作品とは呼び難い。だから、受け取る側は完成された作品の、完成された形態だけを享受することになる。それは作品が静止した実体であるかのように看做す考え方の温床である。そのこと自体は、良いも悪いもない。

 だが、保坂和志はそのような消費者的態度に苛立っているのではないだろうか。言い換えれば、作る側と受け取る側の間に穿たれた絶望的に深い「懸隔」に、堪え難いものを見出しているのではないか。無論、これだけウェブという社会的インフラが発達した世界において、そうした作る側と受け取る側の分業制的乖離がいつまでも保たれるとは考え難いが、現実には未だ、そうした分業システムは堅牢な秩序を維持している。

 保坂は、受け取る側の、受け取るという立場への無反省な充足に敵意を持っているのではないか。そして、受け取るという立場への安住が結果的に「受け取ることの不全」を招いているという入り組んだ事態への、作家としての危機感も懐いているに違いない。無論、これらの見解は私の独断であるから、本人に聞けば全くの的外れな見立てだと一蹴されるかも知れない。だが、それは別に大した問題ではない。

 何かを味わったり愉しんだりする為には、理解度を上げるという努力が欠かせない。理解度を上げないまま、踏ん反り返って作品を受け取り続ければ、無責任で驕慢な断定的批評がゴキブリのように湧き出すばかりである。その作品が発想されて最終的に仕上がるまでの「運動性」に想像力を及ぼさない限り、本質的な理解へ達することは出来ない。結局、人間は誰でも何かを「理解」する為に生きているのだ。無論、それは単に学識を増やすというような薄っぺらな行為を指すのではなく、古めかしい言葉を用いるならば、この世界の「真理」に到達する為に生きているのだ、という意味である。