サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

少しずつ、何かが溜まっていくように

 去年の春先から断続的に書き継いでいた一〇〇枚ほどの小説を、或る新人賞へ送った。それで一つ区切りがついたような気分になって、新しい小説を起稿した。このブログにアップしているファンタジー的な作品とは毛色の違う内容である。思いつくままに書き進めているのだが、一つ心掛けているのは、完成を絶対に急がないということ、もっと言えば内容に頼って表層を疎かにしないということである。

 文章というのは、それ自体に独特の生理のようなものが内在しているのだが、何かを書き記すこと、例えば物語の進行の為にさっさと必要な情報を書き飛ばしていこうと試みると、文章は露骨に粗雑な仕上がりになる。いや、一見するとそれは読み易い文章であると感じられるかも知れない。だが、それは見た目だけの話で、情報が少なく密度が足りないから、咀嚼に左程の時間も労力も要さないという次第に過ぎない。それでは、小説として書かれる意義が失われてしまう。内容さえ通じればいいのなら、小説的なフィクションというのは無用の長物である。そもそも、嘘を書いて何になるのか、という本質的な議論から見直しを始めねばならないだろう。嘘を書いてまで、迂遠に伝えようとする事物が存在するということは、言い換えれば、そのような迂遠な経路でしか伝えられない、或いは表現することの出来ない事柄というものが、私たちの脳味噌に宿っていることの傍証である。

 そもそも小説の目的は、何かを伝える為の媒体ではない。小説という特殊なジャンルにおいて問い詰められているのは、書くという営為そのものの性質であり、構造である。そこに載せられた様々な要素、例えば物語やキャラクターは、小説的な思考の対象兼産物であるに過ぎない。必要な材料であることは間違いないが、材料と結果はイコールではない。同じ小麦粉が素材であっても、パスタとケーキは異質な存在である。重要なのは、書くという営為を突き詰めることだ。その過程で析出される表層的な現象に、眩惑されてはならない。