サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

或る組織の内側でしか通用しない「価値観」

 どうも今晩は、サラダ坊主です。

 最近、転職活動を始めました。

 今の会社には、二十歳のときから十年も御世話になっており、愛着もあるのですが、自分の心の中でどんどん、この会社で働くことへの意欲が失われつつあるのです。その理由は複合的なもので、簡潔な言葉に要約することが出来ません。最も根本的なのは、他の世界、新しい世界で生きてみたい、自分の力を試してみたい、自分を違う形で成長させていきたい、という想いです。

 食品を商材とする小売業の現場でずっと生きてきて、それなりに前へ進んできたという自負はあります。入社当初は、何しろ世間知らずの青二才で、とにかく食う為に何でもいいから仕事をしなければ、という追い詰められた状況の渦中にいましたから、冷静に物事を捉える余裕も持てないままに、あたふたと働いていました。自分には何の力も取り柄もない、だからこの場所で、拾ってもらえたことに感謝して、微力であろうともがむしゃらに努力を積み重ねていくしかない、という想いが、その頃の私を支配していました。元々、接客業に適した性格でもなく、食べることへの関心が強い訳でもなかったので、特に最初の頃は苦労の連続でした。心が折れかかったことも一度や二度ではありません。しかし私は二十歳の時に、連れ子を抱えた年上の女性と、そのお腹の中にいる男児も含めて、一家四人の所帯を構えることになったので、逃げ出したくとも逃げられない重責に呪縛されていました。

 最初に配属された店舗で、私は非常に厳しく鍛えられました。罵声を浴びせられることも珍しくなく、毎日針の筵の上に爪先立っているような居心地の悪さを感じ続けて、身も心も憔悴していました。覚えなければならないことは山ほどあり、にも拘らず私は性来不器用で、狭量な上司の想い描くような目覚ましい成長を遂げることが出来ずにいました。「カラダで覚えようとしてんじゃねえよ、もっと頭を使って仕事を覚えろ」と、当時の上司であった二十代半ばの女性店長から吐き捨てられたことを、私は今でも明瞭に記憶しています。

 当時住んでいた松戸のアパートから、配属先の大井町へ通う途中、必ず上野駅で乗り換えていたのですが、いつも向かいのホームに北関東へ向かう宇都宮線高崎線の列車が停まっていて、それを見る度に私は、職場と反対の方角へ向かうあの列車に乗り込んで、どこか遠くへ逃げ出してしまいたいと、虚ろな瞳で考えたものです。けれど、私には妻子があり、扶養の義務がありました。逃げ出したいけれど逃げ出せない、その息苦しい蟻地獄の底で、私の精神的な忍耐力は徐々に限界へ近付きつつありました。

 或る日、些細な一言がきっかけで遂に忍耐力の限界を超過してしまった私は、休憩中にそのまま職場から逃走し、学生時代の友人の家に匿ってもらいました。携帯の電源を落とし、山手線の、普段ならば乗る機会のない方角へ向かう列車に駆け込んで、私はふらふらと新宿へ赴いたのです。

 友人はただならぬ雰囲気を察したのか、突然現れた私の事情に就いては何も訊ねず、一晩泊めてくれました。翌日、家へ帰らなければ、逃げ出してきた現実へ戻らなければ、と考えながらも、どうしても踏ん切りがつかずにいた私は、一緒にいた友人の携帯に掛かってきた別の友人からの電話で、遂に覚悟を決めました。その友人は松戸の学生寮に暮らしていて、私の家に遊びに来たこともありました。連絡がつかず、行方の知れない私の安否を気遣って動顛した当時の妻が、縋るような気持ちで学生寮へ電話を掛け、その友人を呼び出したのです。彼は夜中の松戸駅界隈を走り回って、私が立ち寄りそうな場所を手当たり次第に探してくれたそうです。繋がった電話の向こうで、彼は泣いていました。観念した私は、妻へ電話を掛けました。妻と一緒に私の両親もいたらしく、とにかく帰って来なさいと叱られました。警察署へ行って、捜索願を出したそうで、父親は「歯型を持って来いと言われたんだ。お前、自分の嫁にそんなことをさせるな」と静かに言いました。

 私は当然辞める積りでいましたし、そもそも無断で職務を放棄した訳だから辞めさせられるに違いないと踏んでいたのですが、案に相違して会社はもう一度頑張れ、戻って来いと言ってくれました。店長と巧く関係を保てず、精神的に参って逃げ出した私に対して、入社のときに私の二次面接を担当して下さった方が「君に辛い思いをさせたのは我々上長の責任だから、先ず君に謝る」と言ってくれたのです。私は信じられない想いでした。物覚えが悪く、仕事の出来ない上に、総ての責任を投げ出して遠くへ逃れようと試みた愚かな私の立場を、その人は尊重して下さったのです。

 その言葉に感動して、私はもう一度頑張ってみようと、己を奮い立たせました。翌月から別の店に異動させてあげる、環境は変えてあげるから、それまでは今の店に戻って、淡々と仕事に励みなさい、それがけじめだと、その方は仰いました。そして、心を入れ替えた私はそれから十年間、今の会社で働き続けてきたのです。

 夢中で働くこと、与えられた場所で力を尽くすこと、愚かで無能な自分を卑下するのではなく、今の自分に出来ることを着実に実行していくこと、これらの積み重ねで、私は少しずつ成長することが出来ました。単なる傲慢な青二才に過ぎなかった私も、そうした日々の御蔭で漸く社会人らしい風格を纏えるようになりました。毎年入ってくる新卒社員の教育から、店舗の収益管理、その他諸々の業務を精力的にこなし、妻子を持ち、新築戸建ての家を買うことも出来ました。会社の信用で、ローンも無事に組むことが出来ました。

 にも拘らず、私は徐々に疲弊を感じ始めていました。昔は新鮮に感じられた様々な事柄が、先の見えた、退屈なルーティンワークのように感じられ、情熱を燃やすことが段々難しくなっていくのが、自分でも分かりました。別の世界でチャレンジしてみたい、他の世界を経験してみたい、という気持ちが、少しずつ募り始めたのです。

 けれど、別の世界といっても、それが具体的にどういうものなのか、自分でもはっきりとは見定め切れていないのが実情です。自分の中にどういう力があるのか、潜在的な力というものが本当に眠っているのか、或いは今までの仕事を通じて蓄積された力が、異なる領域でどのように活用し得るのか、そういった問題に関して、今は未だ、明瞭な答えを導き出せていません。

 組織というのは、不思議なものです。そこには必ず独特の「価値観」のようなものが存在します。その枠組みに搦め捕られて、見えるべきものが見えなくなるということは、珍しい現象ではありません。慣れ親しんだ環境から切り離されれば、それまで通用していた「正しさ」の基準や尺度はあっという間に様変わりします。

 今まで信じてきた価値観から解き放たれて、人生の新しい景色を眺めてみたい。それが最近の私の素朴な感慨です。