サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「理想」を持つことの意義

 今日、転職の為の面接を受けに、久方振りに横浜方面まで足を延ばした。

 そこは個別指導の学習塾を展開している企業で、色々と面接官の方に質問を投げ掛けてみた。どんなことでも訊ねてくれ、総て正直に答えるからと大見得を切るので、私は気になったことを幾つか率直に質問した。

 その面接官は金髪の脂ぎった強面の中年男性で、デニムのジャケットのようなものを羽織り、開いた襟許には金色のネックレスが覗いていた。こっちがダークスーツを身に着けているのが馬鹿らしいくらい、砕けた服装である。私はここまで自由な身なりの人事担当者を見るのが初めてだったので、面接開始数秒間は面食らっていた。

 彼は何でも質問をして、気になるポイントは総て確かめてくれ、自分は何も嘘は吐かない、何だったら録音してもらっても構わない、いざ入社してから話が違うと感じるのが一番困るのだ、という趣旨の発言を、面接の冒頭に長々と披瀝した。その時点で、私はキナ臭い気配を感じた。そういう前置きを殊更に強調するということは、この会社が表向きの見た目と実際の中身との間に、少なからず乖離があるということだろう。強面の金髪の面接官が、スーツも纏わずに求人の応募者を出迎える辺り、しかも最初から愛想笑いの一つも浮かべずに応対する辺り、学習塾という看板には不似合いな、不敵な体質が隠されているということだろうか。

 塾業界の展望であるとか、生徒数を伸ばす取り組みだとか、そういった事柄を細々と質問し、応酬するうちに、話の流れで面接官は「うちは売上至上主義だ」とはっきり言い放った。人事考課においても、数字が目標に達していればそれでいい、後は遅刻早退を繰り返そうがどうしようが、我々は関知しない、結果が出ればそれで構わないのだ、と明言した。私は内心、呆れてしまった。

 無論、売上至上主義も結構である。私の現在の勤め先にも、売上至上の風潮は少なからず瀰漫している。営業職ならば、収益を追い掛けてがむしゃらに働くのが当たり前である。だが、面接の段階で売上至上主義だと臆面もなく言ってのける厚かましさに、私は辟易した。金儲けの一環で子供たちを預かるのは自由だが、曲がりなりにも塾を運営する企業なら、もう少し真っ当な理念が言えないものか。ビジネスはビジネスだ、金儲けが本質なのだ、という考え方は、資本主義社会においては標準的な価値観であろう。しかし、売上至上主義を標榜し、数字に総てを還元して、勤務態度はどうでも宜しいと放任するのは、端的に言って堕落している。卑しいと言ってもいい。

 サービス業の尖兵である現場の社員が、「予算必達」という重たい十字架を背負って日夜齷齪するのは、決して不健全なことではない。それが商人の心意気というものである。しかし、話を聞けば聞くほど、学習塾という商売を金儲けの手段以上に捉えていないように見える面接官の不遜な態度に、私は浅ましさしか見出せなかった。強欲な人間に固有の威圧感が滲み出ている。勿論、深く知り合えば色々な側面も見出せるだろう。だが、私は余り関わり合いになりたくないという感想を持った。

 悪口ばかり書くような文章だが、この企業に限らず、私は改めて「理想」とは何かという問題に、眼を向けることになった。横浜から津田沼へ向かうJRの列車に揺られながら(一時間の道程なので、贅沢をしてグリーン車に乗った)、何故「卑しさ」が問題なのかということにも考えを巡らせてみた。一番重要なことは、安易な現実主義は人間を堕落させるだろうという点に存する。口当たりの良い言葉だけを聞きたいと、子供の我儘を申し上げているのではない。売上至上主義の経営は、売上という数字に絶対的な価値を置くので、売上が鈍化した場合に、信念を保てなくなってしまう危険性を孕んでいる。逆説的なことだが、金儲けの努力を長期的に維持する為には、金儲けという現実を包摂する高次の「理想」が必要なのである。金儲けがしたい、だから学習塾を営もうという順序だと、業績が悪化した途端に、金儲けが出来ないなら塾は廃業しようという話に帰着しかねない。それでは長期的な努力というものが成り立たない。

 こういう言い方自体が青臭い「理想論」に聞こえるかも知れないが、折角だから自分の思った通りに書き綴っておきたい。企業理念というものが、結果的に後から整理されたものだとしても、重要なのは「志」が実際の行動や事業に先行することである。ただ「金儲けがしたい」という理由だけで、壮大な事業を計画したり実行したりすることは出来ない。苦難を乗り越えて事業を成長させる為には、売れない=結果が出ない時代を堪え忍ぶ為の、貧困を照らし出す燈火のような「理想」が不可欠である。理想を持たずに、人は瓦礫の中から立ち上がることは出来ないのだ。その理想がどれほど現実から乖離した、荒唐無稽の妄想に類するものであったとしても、総てはそこから始まるし、始めるべきである。金が儲かるかどうかは結果論であって、志ではない。ビジネスに限らず、例えば「表現する」ということに関しても同じ理屈は通用する。誰かが耳を傾けてくれるという確約を得た段階で初めて「表現」に着手するというのは、伝わらない言葉に価値はないという現世の真理を認めるにしても、本末転倒である。伝わらなくとも言葉を発することで、表現は始まる。その蓄積の涯に、つまり「伝わらない時代」を地道に堪え抜いて表現を積み重ねた末に、漸く「伝わる言葉」というものが生み出されるのだ。最初の一撃に、根拠や保証は寄り添わない。存在するのは唯、確証を持たぬ「理想」だけである。

 たかが学習塾の面接を受けただけで、大袈裟に話を膨らまし過ぎていると嗤笑する方もおられるだろう。だが、私は釈然としなかったのだ。そういう図々しい「合理主義」が正義だと言われても、私はそんなものはアナクロニズムだと言いたい。無論、人間にはそれぞれの価値観があるので、金髪の面接官が信じる「正義」を否定する訳ではない。単に距離を置くだけである。彼は彼の信じる途を歩めばいい。現にそれなりの成果は出ているのだろうから、そのまま地平線まで邁進すればいい。だが、綺麗事に過ぎないとしても、私はもう少し青臭い「理想」や「大義名分」を信じたい。そのような理想が時に暴走して悲惨な災禍を齎す虞も、頭では理解している積りだ。だが、現実主義、合理主義というのも、理想主義と同じく、一つの危険なイデオロギーであることに違いはない。何を選ぶのか、というのは、思想と信念の問題である。単なるビジネスなのだから、収益が上がればそれでいいと、世慣れた大人は冷然と言い放つだろうか? だが、収益が上がればそれで万事解決するなどという考え方が根本的に青臭いと私は思うし、そもそも労働の本質は「社会貢献」であって、金儲けは飽く迄も「社会貢献」の結果であり、目的ではない。社会に役立たない仕事は仕事ではなく、個人的な「作業」に過ぎない。金儲けのことばかり考えていたら、人間の視野は否が応でも狭窄するのだ。そういう狭窄を肯定している限り、新しい世界の開拓など不可能であるに決まっている。