サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

峻烈な風景と、私が育てられた場所

 生きることは振り返ることであり、思い出すことでもある。言い方を換えれば、生きることは思い出すことに似ている。自分がどういう経路を辿って、現在の場所まで辿り着いたのか、それを改めて顧みることは、私の心に不思議な感興を与える。

 今日、売場へ会社から電話が来た。昨日、面談をした上長からだった。妻ともう一度、転職の件に就いて話し合うと答えて、持ち帰ったので、それがどうなったかという確認の電話だった。私は、もう一度、前向きに頑張ってみようと思いますと答えた。上長は電話の向こうで「良かった」と笑い、また何かあったら相談しろよと言った。

 本当は未だに、迷いが存在しない訳ではない。この場所に骨を埋めて良いのか、完璧な確信が持てないことは、厳然たる事実なのだ。だが、自分の内部で、新しい環境へ飛び移ろうとする衝動的な欲望が、急速に萎えつつあることは率直な実感だ。あれだけ深刻に思い悩んでいたくせに、いきなり掌を返したように前向きに頑張るなどと言い出す自分に、我ながら呆れてしまう部分もある。そんなに簡単に覆されてしまう想いなら、安易に退職の意思を会社に伝えるべきではなかったかも知れない。だが、私は少しも後悔していないし、寧ろ必要な手続きであったとさえ、感じている。

 何度も繰り返すようだが、私は好んで今の会社に入った訳ではなかった。十年前、業務用複合機の法人営業を行なう日本橋の販社に、安易な気持ちで飛び込んで直ぐに堪えられなくなり、職場を逃げ出した私は、一月の寒々しい季節に無職となり、当時の妻の冷たい視線に居た堪れない想いを味わい、日雇い派遣の会社に登録して、工場や物流センターの夜勤に出たり、松戸のハローワークへ通ったりして、追い詰められた日々を過ごしていた。今でも鮮烈に記憶しているのは、守谷市のビール工場の夜勤へ行ったときのことだ。常磐線の、北柏駅の近くのコンビニに集合し、マイクロバスに揺られて工場まで運ばれ、サイズの合わない作業着に着替える。静まり返った工場の中には、夥しい数の機械の単調な騒音だけが満ちている。

 午後十時に就業し、仕事内容の簡単な説明を受けた後、直ぐに一時間の休憩が与えられた。全く疲れていないのに、先方の都合で強制的に休息させられ、やがて死ぬほど退屈な業務が割り当てられた。ベルトコンベアに乗って流れてくる大量の金属製のビア樽に眼を凝らし、口金が汚れていないか目視確認し続けるという、意味があるのかないのか分からないような仕事だった。日によっては、一つのビア樽も汚れていない場合もある、けれど油断しないで、眠らずに目視点検を遣るようにとの御達しだった。電気ストーブに当たりながら、私は真夜中の工場の閑散とした広大な空間の一隅で、退屈を紛らわす為に色々な歌を口ずさみながら、ビア樽の番人を務めた。

 目視が終わり、ビールケースの洗浄という次の業務が始まるまでの間、私たちは雑巾を渡され、床でも拭いていてくれと言われた。薄汚い雑巾で、何処を拭けと指定される訳でもなく、ただ中途半端に生じた業務上の空白を埋める為だけに、私たちは適当な雑用を宛がわれたのだ。誰にでも出来る仕事、特別な技能も熟練も全く要求されない、純然たる作業、そして名前を呼ばれることさえない日雇いの立場、そうした現実の総てが、堪え難いほど苦痛で、精神的に消耗した。自分は少しも必要とされていない、単なるロボットの代役だ。名前を呼ばれることも、経験が蓄積されることもない、こんな仕事を日当数千円で引き受けて、夜明けが来れば御役御免で再びマイクロバスに詰め込まれる。こんなところにいたら、絶対に駄目になると、私は痛烈に感じた。

 そんな窮境へ追い込まれていた私を、今の会社は雇ってくれた。日雇いに草臥れ、家の中にも居場所を見出せず、生きることそのものに疲れ切っていた二十歳の私に、会社は雇用という投資を行なった。人生を棒に振ろうとしていた私を、辛うじて人並みの暮らしへ結わえ付けてくれたのは、紛れもなく今の勤め先なのだ。私は人が変わったように働いた。固より小売業の世界は、長時間労働の横行する領域である。特に十年前は、今よりも遥かに労務管理が甘かったから、私は毎朝五時に起きて職場へ行き、夜の十時を回る頃まで働いた。若いとはいえ、運動部で鍛え上げた訳でもない私の貧弱な躰に、そうした日々が多大な負荷を掛けたことは事実である。けれど、私は弱音を吐かなかった。最初の配属先で上司と反りが合わず、休憩時間に逃げ出して行方を晦ました後、上長の温情に触れて、もう一度、この会社を信じてみようと決めたときから、私は絶対に逃げ出さないと誓ったのだ。

 無論、そこから一瀉千里に、今日の自分が仕上がった訳ではない。生きる為に我武者羅に働きながら、徐々に信用を勝ち得て、契約社員から正社員に登用され、平社員から店長に昇って、色々な問題を一つずつ手探りで乗り超えながら、私は社会人としての日々を過ごしてきた。思い悩むことは幾度もあったし、前妻との離婚の危機が持ち上がったときには、徹底的に心身を追い詰められ、本気で退職を考えた。

 それでも続けて来れたのは何故なのか。結局、個人的な決意だけで、艱難の総てを踏み越えられる筈もない。その都度、誰かが救いの手を差し伸べてくれたから、完全には挫けずに済んだのだ。厳しい言葉を投じられた経験は無数にある。それでも踏ん張ることが出来たのは、誰かしら信頼に値する人々が、私の周囲に存在してくれていたからだ。

 改めて感じるのは、私には自虐的で犠牲的な精神が備わっているという簡明な事実である。自らを社畜であると名乗る積りはないし、家畜の歓びに甘んじるような自堕落な態度に、傾斜していこうとも思わない。私は常にプライドを持って仕事に取り組んできたし、様々な困難を、歯を食い縛って乗り超えてきた。その結果、漸く眺めることの出来るようになった風景は幾つもある。見た目には社畜のような働き方だった時期もあり、その頃は、他人に対しても過度の峻厳さを以て接していた。他人のいい加減な働き方、限界を目指そうとしない働き方が許せないほど、自分自身が夢中で働いていたのだ。遣れることを総て遣った訳でもないくせに、出来ないと言い訳するのは不潔だし、怠惰だと、その当時は半ば本気で信じ込んでいたのだ。

 だが、見える風景は常に移り変わっていく。昔に比べると、周囲の人間に向かって怒りの矛先を向けることが随分と少なくなった。仕事は大切だが、限界まで自分を追い込んでいく遣り方が常に正しいとは限らないし、万人に妥当する訳でもないという有り触れた真理を、漸く学び取ったのだ。限界を目指したからと言って、望ましい成果が約束される訳でもないし、個人の能力には様々な形態が特質がある。それを一律の基準に当て嵌めて、足りない部分を計え上げるのは、人間として不潔な流儀である。

 そういうことも、結局は日々の労働を通じて、私は学んできた。振り返る度に、忘れかけていた想い出の断片が、粉塵のように舞い上がり、硝子片のように目映く鋭く輝く。どんな迂遠な道筋であったとしても、私はこの十年間、一つの険しい道程を歩み続けてきた。その記憶と経験を悉く擲って、純然たる新天地に移り住むには、私という人間は、過去を愛し過ぎているのだ。如何にも蠍座的な発想と言えるだろう。