サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

言葉を汲み上げる日々

 明日は朝から晩まで仕事なので、今日は手短に書いておく。

 これと言って明確に書きたいことが思い浮かんだ訳でもないのに、こうやって記事を書き起こすのは、こうした作業に関心のない人にとっては変態の所業と感じられるに違いない。別に芸能人でも作家でもない、大勢の観衆に取り囲まれることなど永遠に有り得ない市井の凡人が、何を張り切って日々、文章を書き殴って衆目に晒す必要があるのかと、揶揄する声も想像出来ない訳ではない。誰も期待していないのだから、さっさと風呂へ浸かって眠ればいいだろうと言い放つのが、世上の良識であろう。

 確かに、極めて少数の読者の耳目にしか触れる機会のない、この無名の個人的な日記を、熱心に更新したところで誰かが利益を得ることはない。だが、そうやって社会的な需要から遠く隔たった場所で運営され、生み出されている言葉だからこそ、自分で自分に何らかの習慣や枠組みを宛がわなければならないのだ。

 書くことは、そして書いた文章をウェブの大洋に投じることは、誰かに読まれることを前提としている。少なくとも、読まれるかも知れないという期待はしている。だから、常に読者の存在を思い浮かべ、成る可く精細なプロフィールを事前に組み立てて、そのリアルな読者の表情に向けて、文章を練り上げ、表現に創意工夫を施す努力が必要だと、言いたがる人々がいる。書くことに限らず、所謂「マーケティング」の世界に暮らす専門家ならば、情報の「宛先」に存在する人々の姿を明瞭に想定しないままに、何らかのメッセージを発信するのは馬鹿げていると嘲るかも知れない。先日も、ネットの海を漂っていたら、その類の文章を見つけた。余り著名とも思われないライターの女性が、優れた文章を書く心得と称して、読者の姿を明確に想定しろと御託宣を垂れていた。勿論、そこには一理あるのだろう。

 最近、少しずつ読んでいる「職業としての小説家」(新潮文庫)の中で、著者の村上春樹が「具体的な読者の姿を想定して書いたことはない」という意味合いのことを述べている箇所に遭遇した。別に村上春樹の金看板に凭れ掛かって、ネットで偶然見かけた女性ライターの見解に異議を唱えようとしている訳ではない。私が言いたいのは、具体的な読者を想定して書くということは、書くことの本質に必ずしも関係しない、ということであり、或いは具体的な読者の想定という行為が、それほど生易しいものであるとは思えない、ということである。

 具体的な読者の為に書く、それは一見すると尤もらしい倫理のように聞こえる。相手のことを思い遣らずに何でも思い浮かんだことを書き殴るのは、不誠実であり、結果として「誰にも伝わらない言葉」を生み出すことになる、という理路は、無性に道徳的に響く。だが、私はそういう言説を余り信用していない。誰か知り合いに手紙を書くのならば、相手の顔を緻密に想像して言葉を選ぶのも結構な心遣いだ。だが、基本的に不特定多数の人間に向かって、言い換えれば「世界」に向かって書くということは、具体的な「顔」を想像することも出来ない、絶対的な「他者」に向かって書くことであり、従ってそこでは、信じられるのは「他者のイメージ」ではなく「自己の方針」のみである。時代を越え、社会的な環境を越えて響き合う文章というのは、具体的な誰かに向けて発せられた言葉で編成されているのではない。もっと抽象的な「理念」のようなものに捧げる為に、訥々と綴られているのだ。例えば私の心が坂口安吾の文章に揺さ振られ、一方ならぬ感銘を受けるのは、坂口安吾がサラダ坊主の顔を懸命に思い浮かべて文章を丁寧に鍛造し、研磨したからではない。彼は特定の誰かに語り掛ける為に文章を書いたのではない。坂口安吾が信じていた相手は、一言に約めるならば「世界」であり、「歴史」であろう。そういう普遍的な理念を信じて発せられた言葉だけが、思いも寄らぬ影響力を身に纏うことになるのだ。無論、これは私の無根拠な信条に過ぎないから、賛同してもらう必要もない。重要なのは、自分の力で自分の内側を掘削していくことだ。その孤独な労力の累積の涯に、本当の意味で「他者」と通じる為の回路が築かれるのだと、私は静かに信じ続けたい。