サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

個性的である為には、「自分」というコンテンツを再発見するしかない

 どうやら風邪を引いてしまったらしく、体調が芳しくないので、余り入り組んだ記事は書けそうにもない。思い浮かんだことを漠然と綴って、パソコンの画面に待ち針で縫い留めておきたい。

 ブログでも小説でも、或いはもっと日常的な次元で、仕事や家事、諸々の人間関係においても、所謂「個性」という観念は絶えず重要な意義を担っている。勿論、この場合の「個性」という言葉の意味を精確に定義するのは、簡単なことではない。誰もが使い古された語句のように平然と「個性」という単語を用いるが、その本質がどのような内容を含んでいるのか、明確に指し示せる人は余り多くないだろうと思われる。

 例えば、ビジネスの現場では「差別化を通じた競争力の強化」という考え方が、一つの神話のように頻繁に語られる。それは要するに「余所にはない独自性」が「価値」を生み出すという理窟である訳だが、そのような解釈が所謂「個性」の本義であると看做すのは早計ではないだろうか。「個性」というものが価値を持ち得るのは、それが他人と「異質」であるからなのだろうか。こうした発想は、何かしら奇矯で突拍子もない行動やスタイルが「個性的である」という認識に結び付き易い。けれども、単に突拍子もないこと、誰もが面食らうようなことを意図的に選択していけば「個性」が形成されるというのは、少し浅薄に過ぎるのではないかと私は思う。本来「個性」というのは自ら作り上げるような、つまり恣意的な何かではなくて、元々自分の内側に存在する諸要素の総体である筈だ。そして、その諸要素は一つ一つを取り上げて眺める限りでは、特段に風変わりな外貌を有しているとは限らず、寧ろ凡庸で単調である場合が殆どであろうと思われる。

 誰かと異なる特徴の持ち主でありたいという願望は、皆と同じでありたいという欲望の陰画に見える。その根底に息衝いている精神の形態は、見た目ほど対蹠的なものであるとは、私には思えない。重要なのは、自分自身の存在を少しずつでも地道に耕していくことだ。それが直ちに「個性的である」という評価を生み出すとは限らない。寧ろ、そのような分かり難い「個性」は往々にして日の目を見ぬままに朽ち果てていくのが通例であろう。しかし、本当は「個性」というものは他人の関心を惹いたり、社会的な栄光を獲得したりする為に装備される「武器」ではない筈だ。そういう表層的なパフォーマンスによって形作られるイメージを「個性」と呼ぶのは、結局のところは仮装に過ぎず、従って恣意的な「仮面」に過ぎない。「個性」と呼ばれるものの価値を自ら帯びる為には、他者との比較という価値観の尺度を解除するところから始めなければならない。他者との比較という社会的な度量衡は、所謂「個性」を相対的な異質さに置き換えてしまう。しかし、そうやって単位を切り揃えてみたところで、本質的な意味での「個性」が捉え得る訳もない。厳密に考えるならば、私は私であるだけで既に個性的である。無論、そうやって開き直ることで私たちの視界に浮かび上がってくる「私」の姿は、決して個性的には見えないだろう。はっきり言って、凡庸極まりない外観を有しているだろう。その凡庸な外観を見凝め直し、失われた記憶の断片を繋ぎ合わせ、曖昧模糊とした内なる「感覚」に光を当てることでしか、本当の「個性」は見出し得ないのではないか。見た目の「個性」は、それを取り巻く社会的な環境の変化によって幾らでも変動するし、その価値も容易く目減りしてしまう。言い換えれば、表層的な意味での「個性」は、既存の社会的価値観との相対的な「距離」に基づいて、他律的に決定される。そんなものを「個性」と呼んで飼い馴らしたとしても、内なる「生の充実」は絶対に手に入らない。私が私である為に必要な手続きや要素だけが、正銘の「個性」の材料である。他人との比較を通じて見出される「個性」とは結局、体制的な社会の「部分」に過ぎないのだ。