サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

サラダ坊主の施政方針演説 「長文の推進と、独創的価値の蓄積」

 九月の末日から十一月も半ばを迎えた現在に至るまでの四十数日、ずっと毎日このブログの更新を続けてきた。それは最初から企図された方針ではなく、一身上の都合に由来するものだと、つまり「成り行き」に過ぎないと言える。九月の頭くらいから私は転職活動に着手して、色々と身も心も悩ませていて、次から次へと意識の表舞台に容易には解決のし難い煩悶の断片が積み重なり、どうにも落ち着かない心境を余儀無くされていた。それで、今にも吹き零れそうになる感情や想念をどうにか吐き出して、精神的な均衡を維持しようと考えたときに、最も手近で有効な手段はブログの記事という形で文章を書き綴ることであった。文章は、内省の方法としては極めて合理的で即効性に満ちたものである。

 だが、十月の頭に転職を撤回する方針と決意が定まった辺で、そういう内なる煩悶を言葉に置き換えて垂れ流すことへの切実な執着は自ずと解除された。不思議なもので、幾らでも引き摺り出そうと思えば、悩みの種など幾らでも無限に転がっているような気もするのに、魂が落ち着いてしまえば、殊更に文章の上で煩悶と懊悩を捻り出そうとしても、嘗ての衝迫は失われてしまって二度と同じようには甦らない。それまでの切迫した悩みが嘘のように消え去り、私は涼しい顔で今まで通り眼前の仕事に打ち込むようになり、その回帰に精神的な安らぎさえも感じていた。

 だから、転職すべきかどうか、転職するならば、どのような分野、業種、職種へ挑戦すべきかなどと出口の見えない設問と取っ組み合って、実際に数社へ応募して面接を受けたりといった時期のように、毎日記事を書いて吐き出さねばならない「屈託」は、十月の上旬の段階では消え去っていた。にも拘らず、私が毎日記事を書くことに執着を示してきたのは、それまでどう頑張っても困難であるように思えていた「毎日更新」が現実に出来ている以上、それを成る可く続けていきたい、或いはそれを可能にする千載一遇の好機であると考えたからであった。

 しかし、ブログを毎日更新することに、一体何の意味があるだろう? 書く力を鍛える為だろうか? 題材を発見する観察力を錬磨する為に、ギブスを嵌めるように「毎日更新」の縛りを自分自身に与える? だが、私が実際に毎日更新を通じて感じたのは、寧ろ自分自身の「手抜き」であった。毎日、限られた時間の枠組みの中で記事を書く、いわば「粗製濫造」を実現する為に、私は一回の記事の分量を1200字前後に抑制することに決めた。以前は最低でも2000字、頑張って3000字くらいは書きたいと思って日々、執筆に励んでいたのだが、現状のライフスタイルを踏まえた上で連日の更新を半ば義務的に実現するには、3000字の分量は聊かハードルが高い。だから、意識的に1200字(400字詰め原稿用紙3枚分ということだ)を目安にして、それを己のルールとして採用することに決めたのであった。

 そのこと自体の善悪を突き詰めても答えは出ないだろうし、それに記事の文字数や分量に関して彼是と思い悩むこと自体、結局は誰の利益にも繋がらない極めて些末な問題に過ぎないと言えるだろう。どうだって構わないと言い切ってしまえば、それで済む程度の不毛な設問であることは間違いないからだ。だが、他人にとっては不毛な課題に見えても、当事者にとって切実に感じられるのならば、思う存分、切実に悩めばいいのだ。それが「実存は本質に先立つ」(©ジャン=ポール・サルトル)時代の突き放された宿命というものではないだろうか。

 実際に自分自身の経験として、つまり一般論の引き写しではなく、個人的な体験として「毎日更新」に一定の期間を費やしてみたところ、少なくとも記事の分量に関する制約が強いられないのであれば、毎日記事を投稿するということ自体は、然して難事ではないということが明瞭に理解出来た。一日二本の記事を投稿するのは、現状の生活設計を鑑みれば流石に困難であろうが、それも一記事当たりの字数を更に減らしていいのならば可能だろう。予約投稿の機能を活用すれば、何処かのタイミングで記事を書き溜め、時間を稼ぐことも容易である。それでは実質的には毎日更新ではないだろうと叱責されるかも分からないが、形式的には「毎日更新」である事実は変わらない。

 だが、容易なことを只管に続けるだけで、自分自身の技倆と器量を成長させることは出来ない。何より、私が最も問題だと感じたのは、1200字の目安で一つの主題に関して記事を書いていくと、重要な局面に差し掛かっても、充分な深掘りを行なわないままに目標の字数へ到達してしまうということであった。勿論、もっと長く書き進めても一向に差し支えないのだが、毎日更新という制約を保持する為には、一つの記事の枠内で長々と文章を書き連ねるより、さっさと切り上げて新しい記事の作成に着手した方が明らかに合理的な判断である。毎日更新という金科玉条を維持することを「目標」として掲げる以上、何らかの皺寄せが他の要素へ圧し掛かることは避け難い。有限の時間と労力を用いて目標の達成を果たす為には、そうした取捨選択は当然発生する手続きであり、所定の基準に達した段階で投稿を終え、次の記事の執筆に乗り出すのは至極尤もな選択であろう。

 言い換えれば、毎日更新を維持する為には、一つ一つの記事の「深掘り」がどうしても甘くなってしまう、という経験的事実が、私を捕えた訳である。十行でも二十行でも、それで適当に取り繕って完成したことにしてしまえば、記事数は手軽に積み上がる。余程「書くこと」に馴染んでいない段階であれば、それでも一定の基礎的な修行としての効果は発揮し得るかも知れないが、毎日更新が然したる難事ではないことを実感的に悟った上で猶、従来の方法を踏襲したまま続行するのは修行ではなく、単なる惰性と怠慢のアマルガムに過ぎない。しかも、一つの主題に関する徹底的な深掘りが行なわれない限り、対象に加えられる考察の錬度は低下せざるを得ない。考察の踏み込みが浅いということは、それだけ文章が陳腐化して、独創的な省察を稀少な砂金の如く帯びる見込みに乏しくなるということだ。そうした貧弱な記事を只管、毎日更新の軛の下に書き続けたところで、一体誰の利益になるだろう? 更新頻度が上がれば、人目に触れる機会が増え、相対的に読者の増加に寄与するという理窟が、ネット上では普遍的な真理の如く堂々と語られているが、そうしたテクニカルな問題に引き摺られて、書くことの根本義を忘れ去るのは、惰弱の謗りを免かれないだろう。要するに私は、方針の転換を図らねばならないと思い立ったのである。直ぐに思い立って直ぐに忘れ去るのが、私という人間の度し難い宿痾であることは承知しているが、固より浜の真砂にも等しい零細個人ブログの運営方針なのだから、幾らでも思い立った度に書き替えればいいのだ。刑法を改正する訳ではなく、誰にも影響力を及ぼすことのない無名の書き手の個人的な規範が、ネットワークの片隅でひっそりと改革されるに過ぎないのである。

 人は、或いは私は、一つの主題に関して充分な字数=時間=思考を費やさない限り、単なる一般論や常識の範疇を逸脱することが難しい。過去に充分に練り上げられ、幾度も検討を加えた主題ならば、短い文章であっても、それなりに読み応えの感じられる独創的な省察を簡潔に纏めて提示することが可能になるだろう。しかし、既に答えの出ている問題ばかりを取り上げて文章に書き起こすだけでは退屈極まりないし、自分自身の魂も深まっていかない。答えの出ている、少なくとも自分の中では「正解」だと感じられている問題に就いて適切に要約する技術だけを重点的に洗練させたからと言って、それが人生の新しい局面を開拓する決定打に繋がるだろうか? そんなことは有り得ない、多くの場合、洗練は既に完成された何かの、重箱の隅を突くような改善に過ぎないからだ。そういう小賢しい洗練の為に、書くということの根本義が存すると思い込むのは、あらゆる偉大な文人への冒涜であるとさえ言い得る。総ての偉大な作家は、他の誰もが言葉に置き換えられなかった新たな省察を開拓した功績によって、人類の長大な歴史の一隅に、その名を刻まれているのである。独創的な価値を微量でも含まない単なる文字の羅列に、そうした栄光を期待するのは馬鹿げているし、そのような記事の量産が衆目に触れる機会を増やし、ブログの認知度を高めたとしても、そこに明るい未来が築かれるとは信じられない。

 無論、これまで書いた記事が無意味だと言いたい訳ではない。少なくとも私自身にとっては、たとえ浅薄な内容であったとしても、書くこと自体が一つの鍛錬であり、成長へ向けた礎石であることは間違いない。だが、そういう手法と姿勢を延々と墨守したところで、新たな何かが生まれるとは考えられないし、極めて零細なブログに過ぎない「サラダ坊主日記」の社会的発信力が向上するとも思われない。勿論、私の文章は御世辞にも読み易いとは言い難いし、実際に読者の苦労や立場を絶えず考慮しながら、一つ一つの単語を選択している訳でもない。一旦書き上げたら、殆ど読み返すことも推敲することもせずに、そのまま無造作に公開してしまっているのが実情である。そういう手前勝手な遣り方では、誰にも読んでもらえないし、そもそもお前は本気で自分の考えや想いを世間に伝えたい、訴えたいと思っているのかと疑われてしまいそうだ。だが、私は読んでもらいたいと本気で考えているし、読んでもらう為に書いている。しかし、読まれる為に自分の個人的な方針や流儀を捻じ曲げることはしたくないし、表現することを阿諛追従やマーケティングの同義語に貶めたいとも思わない。重要なのは、自分なりの方法で表現し、それを受け容れてもらうということで、受け容れられることが最も優先されるべき事項だとは考えていない。若しもそのように考えられるのならば、私はもっと創意工夫して、あらゆる手法を実地に試験し、世間の基準に寄り添い、明快で魅力的な文章を書く為に骨身を削ってきただろう。それが出来ないのは、能力の不足だけが原因ではなく、私の気質や方針に由来しているのである。私は、私という人間を社会へ向けて発信する為に書いているのであり、社会に受け容れられる私を作る為に書いているのではない。何故なら「社会に受け容れられる私」の形成は、日頃食う為に取り組んでいる「仕事」の方面で充分に努力しているからだ。

 仕事ならば、私は売上と収益で判断される日常の苛酷さにも、それなりに適応しているし、結果を出す為に彼是と頭を使って工夫することも厭ではない。何故なら、それが「仕事」というもので、そこでは自分自身の身勝手な生態を表現することよりも、客観的に査定され得る成果を導き出し、所属する組織の発展に寄与することが何よりも重視されるべき世界であるからだ。しかし、この「サラダ坊主日記」は飽く迄も私の個人的な自己表現の為に構築されている領域であり、舞台なのだから、受け容れられる為に自分自身の流儀を書き換えるのは本末転倒なのである。

d.hatena.ne.jp

 ペトロニウスさん(id:Gaius_Petronius)が書いた上記のエントリに、私は以前から頗る共感し、励まされている。長文も厭わず、確りと時間と労力を用いて、主題を深掘りして、自らの思索を豊饒なものに変えていきたい。これが、今回の施政方針演説の核心となる趣旨である。